水辺の芸術祭でKenYokoyama

松江にken yokoyamaが来るというので、馳せ参じた。水辺の芸術祭というイベントで、美術館近辺の宍道湖沿いの遊歩道のようなスペースにステージが立っていた。念願の、家族揃って野外ライブなのであーる。夕日が湖面にあたって、ヌシでも出て来そうなほど美しい。秋の夕空らしい劇的な雲から、天使の梯子がいくつも降りている。そんなとこで、なんでケンちゃんなんやろ?
子ども向けのイベントもあったので家族連れが目立つ。そして、赤ら顔のお父さんが目立つ。いいなあ。ま、ケンちゃんの客は呑んでる人多い感じで、ま、そっちは当たり前だけど。休みの日に赤ら顔ってのは見てて落ち着く。WCに行ったら、なんと女子便所より男子便所の方が長い列ができてるという異例の事態。いかに呑んでる人が多いかが分かって笑える。
ケンちゃんは、ハイスタとともに聞いてはいるけど、そこまで熱を上げる感じでもないので、今回が初。妻と長男は何度か行っている。長男が6歳の頃、妻が関西のライブハウスに連れて行って、ライブ中にケンちゃんが声かけてくれて、「いくつだ?」って。すかさず妻が、7歳からぢゃないと入れないと言われていたので、7歳と言うようにうながして「7歳」と答えたというエピソードがあるが、その時以来。
いやあ、ロックだなあと思ったのは、まあ、曲やライブがパンクで、たのしく騒げたというのはいわずもがな。新曲で、you and I against worldという曲。世界に対抗していく、闘っていく、これこそロックです。しかも闘うのに自分の声を上げていく、そして同じ考えの人が仲間になっていくということも求められており、you and Iって連帯を意味している。そして原発に対して、「生活者として」反対を表明したり、何をやるにも電気を使う、そのライフラインに関する問題だから、と至って普通に大事なことを言ったりする。「愛国心というか郷土愛」を語ったり。自分で住んでるこの国が、この島が好きだといったら、(本人も危惧してたように)右翼みたいに思われたりするだろうけど、政治的な発言や思想なんかではなくもっと身近なところで率直な意見を言えばいいと言いつつ、日の丸をマントにしたら、そりゃ誤解も招きそうなものだけど、そこで「日本マン」になったって言うんだから、危惧は一挙に払拭される。アホはすばらしいねえ。
ロックって「against」なのに、なんか生ぬるい歌歌ってみたり、色恋歌に終始してみたりと、日本のロックはアマチュア・プロ問わず、「サラリーマンロック」だと友人がかつて言ってた。キヨシローやARB(反戦の歌が最高のラブソングだというのは石橋凌の弁)以外、なかなか社会的な発言は苦手なような風潮の中、あれだけ言えれば大したものです。

ところで会場で「嫌原発」ってTシャツが目に付いた。反原発でも脱原発でもなく、ぼく原発嫌いっていうつぶやき。なんか生ぬるいってか気持ち悪いっての。「反」といえば否定することで原発自体としっかり関わりが生じるし、かつ関わりを持っていくぞという意思も見える。でも「きらい」なんてのは個人の主観か、趣味であって、他人にとっちゃ「へー、それで」で終わる。言う方も、何か突っ込まれたら、「嫌いと言うのは僕の勝手だ」と逃げられる、はなから逃げ腰モード。あんたが好きでも嫌いでもどーでもいい。息子とはなしてたら、そういうのは「幼稚」だって言ったので、そうその通り!と思ったよ。だというのに、大学生と関わったり世相を見たりしてて思うのは、個人とか自由とか発想する時そこでの物差しは「好き嫌い」に終始することが少なくないんです。好きなことばかりやってて自分がどんどん狭くなりだめになるってことに気づかないのかねえええ。と書いてる横でテレビのドラマのセリフが聞こえた。「若いうちはうんと働け。仕事好き嫌い言っちゃいかんぞ」
ところで、娘3人をかわるがわる肩車して跳ねたり、息子にタックルしたりしながら楽しんだのですが、最後の曲がBelieverだったので、すかさず、妻と二人でそれぞれ双子を肩車して騒いで、これでちゃんと終われました。というのも、双子の末っ子が、言葉が遅くてまだちゃんと日本語を話せなかった2歳の頃、剣のおもちゃで双子の姉を叩きながらなぜか英語のBelieverをけたたましく歌ってたという、うちの家族にとってはいわくつきの歌だったからです。
以下で「水辺の芸術祭」の写真があり、ライブ写真もたくさんあります。
http://nob-eye.jugem.jp/?eid=612