ライヴのお知らせ(ゼミ)

先日あったシンポジウムは打ち上げ花火でそれっきり、ではなく、フォロー研修がある企画なのです。なかなか面白い企画ですよね。おかげで、もう3回、京都で話をする機会をもらいました。形式はゼミ。「とも生きゼミナール」の銘打たれております。先のシンポジウムのテーマが「ともに生きる力」だったので。
日時
第1回2017.9.15(金)19:00〜20:30
第2回2017.12.15(金)19:00〜20:30
第3回2018.2.9(金)19:00〜20:30
場所
キャンパスプラザ京都2階第1会議室
あ、主催者側の案内が出てました。
https://j-soken.jp/join/8955

で、話の内容ですが、ドラマなんかで記憶喪失の人なんかが言う紋切り型のセリフがありますね。
「ここはどこ、私は誰」
それでいこうかな、と。
第1回は「ここはどこ!?」
「ここはどこ」と尋ねられれば何なりと答えられるでしょう。その答えに、その人の在所が写っています。
そして、意識しようがしまいが私たちは歴史の子であり、意識できないところまで存在は根を張っています。
われわれのいる時代が持っている制約や前提を照射したいと思います。そうしないとどんな素晴らしい宗教の言葉や思想も、空疎に響くからです。
そしてその時代とは「神は死んだ」時代、マイルドに言えば「世俗化」の時代、そしてニヒリズムが基調をなす時代であるとぼくは思っています。
第2回は「私はだれ!?」
自分の居場所はわかった、ということにして、それではそこにいる自分ってなんだ!?私ってなんだ!?自分探しってのが流行ったことがありましたが、その不毛と必要を述べた上で、私といううものの核に迫っていきます。そのことは死とはいかなることかという問いとも繋がっています。死の問題は結局、私の死であってこそ問題なのであり、私ってなんなのって問いと不可避的に絡んでくるのです。
第3回は「ここから、私は何になっていくの!?」
2回なら「ここはどこ、私は誰」ですむけど、3回なので、あえていうなら、私はその居場所から立ち上がって、どうなっていくのか。ニヒリズムの今、聖なるものの閃きはどこに見出せるのか、その具体相としての個別的な課題を見ていくということになります。手を使い足を踏み出す時にかかわってくるのが他者であり、倫理であり、歴史や社会です。
ニヒリズムを通してのニヒリズムの超克」というところまで行けるといいなと思います。

ま、ざっとこんなことを思い浮かべてはいますが、ゼミなので参加の方々との議論も入るでしょうし、こんなに話はできないかな。でも、こんなようなことに興味が沸く方は、どうぞ時間を作ってお越しください。お待ちしてます。
同じ思惟の海の中で、泳いだり溺れたりいたしましょう。