『戦場でワルツを』を見て

戦争はいけない。幼少期からそう思っていた。こわいからだ。戦場に立つことを想像するとこわくて仕方がない。逃げたくなる。死んだふりをしていたら勘弁してもらえないだろうかなどと思う。戦場の実情を知らない子どものころから恐ろしかったわけだが、多少の情報や知識を得ても、怖さがなくなるどころか、余計おそろしい。こわいということだけで戦争というものは考えられないが、それをぬきに考えてもいけないと思う。
いまだに想像力は貧困だが、それを補ってくれるような写真、文章、映像を見ることがある。映画「プライベートライアン」は劇場で最初の数十分恐ろしくて仕方がなかった。動けなかった。
戦場でワルツを」という映画を見た。イスラエルレバノン侵攻をめぐる話なのだが、アニメである。実によくできている。ある歴史的事件をドキュメンタリーのようにニュースのように伝えられない以上、アニメにしようが実写にしようが小説にしようが、フィクション度は変わらないであろう。でも、なまじっかの実写よりリアルな感じがするから不思議だ。このアニメのよさのひとつはその陰影にあると思われる。
戦場でワルツを 完全版 [DVD]
挿入される音楽もとてもぼく好みで、思いもよらず、P.I.LのThis is not a Lovesongがかかって、その時代の空気が甦るようだった。
予告編にあった、「俺たちは過去を忘れる。しかし過去は俺たちを忘れない」というコピーは深い。
大学院の頃、大乗仏教の空ということの体認的思索を鍛えていた頃、師匠が言った。「我々が空を忘れても、空は我々を忘れない」。驚いた。全く立場がひっくり返っている。こうなれば、もう揺るがない。場合によっては「救い」が成就しているともいえるし、「途中にあって家舎を離れず」であるとも言えるであろう。それはさておき、この映画の場合、記憶ということに関して、上記の「過去は俺たちを忘れない」が「救い」になるとは言えなそうである。
ところで「レバノン侵攻」は、先般死んだとされたウサーマ・ビン・ラーディンが2004年の声明で、自分たちが9・11を起こした動機になったと語ったほどのものである。映画の内容は1982年の「レバノン戦争」における、かの「サブラ・シャティーラの虐殺」をめぐる、主人公の体験と記憶に関するものだ。ぼくは「生活の中の宗教」とタイトルのついている資料を何年振りかに出してきて参照した。大学講師時代に行った講義の中で、自分でやってて苦しくなるものっていくつもあったけど、その上位に上がること間違いなしの内容であった。広河隆一さんの名著はいくつもあるが、『パレスチナ 瓦礫の中の子どもたち』(徳間文庫)を参照した。写真もスライドで映した。私の貧しい想像力でさえ戦慄する内容が綴られている。是非とも読んでいただきたい本です。
広河さんの作品がカメラマンというパースペクティヴでの、この事件とのかかわりであるのに対して、映画では、イスラエル兵というパースペクティヴでのこの事件とのかかわりが描写されていて、事件の近くまでいったような臨場感がある。
これをなんとイスラエル人が作っているというのが、また驚きである。