眩しい! 何だこの赤は!?

JackSpirit2005-12-24

赤い実は、鳥の目にとまり彼らはそれをついばむ。赤い衣の下に息を潜めていた種は、鳥の体をくぐり抜け、糞の衣をまとって抜け出し、自分の故郷から遠くへだたったところに着地する。そうして新天地に新たな繁栄を賭け、試みる。
もしそうだとしたら、赤い実が「なんで?」ということに対する答は何になるだろうか。
鳥がついばむため? 種の保存のため?
そういう応えが可能だとして、それでも、実があんなにも赤くあること。これは何によってもたらされたのか。何に与っているのか。
鳥に目立つように、その実を赤らめたのは、南天による工夫なのか。
そういう仕方で種を繁栄させ保存する工夫を思いついたのは、植物の智慧なのか。
南天が考える、とだけ言うと多くの人は奇異に思うだろう。植物が工夫するといえば、それは擬人法だと言う声が聞こえてきそうである。主語が個々の南天であると奇異なのか。主語は、植物? 大自然? それともその他の何か? 植物に智慧があるということが、仮におかしいとしたら、ぢゃあ実際起こっているあのことは何なのか。種がどうとか遺伝子がどうとかいうのは、わからないことをわからないことで説明したに過ぎない。〈わからないこと〉に〈わからないこと〉を重ねると、なぜか〈わかったような気〉が出現する。手品だ。植物に智慧があるといって不適切なら、その知恵や工夫の主体は、何なのか。個々の植物が脳細胞を持っていないという理由で、その主体であることを却下されるとしたら、主体の所在、智慧の所在は、どこなのだろう。
神の意志や目的のもとに、万物が作られ、進化が行われる。そう考える人もいるであろうが、私はそうではない。この考えは正当化されるべきものを含んでいるけれど、それでも、「神」をどう捉えるか、それをどこで言うかという難関を経ないと、しかるべき正当化はなされない。
主体という発想が、現実の原因として実体的な神を想定することと同様に、事実をありのままに見ることを妨げるのかも知れない。「なんで?」という問いに、どんな立場からでもいい、どんどん答を与えたい。答としての説明がどれだけ増えても、赤さの不思議は消え去らないし、むしろ厚みを帯びた不思議、思議を蔵した不思議になる、からである。
一体全体、なんだあの赤い実は!