花の知恵

   
  白河の春の梢のうぐひすは花の言葉を聞くここちする  西行

花に言葉なんてあるか。花に知恵なんてあるものか。科学がなかった昔の人の言うことだ。文学的表現にすぎない。そういう発想の出所は「客観的」(と称される)自然認識であろう。しかし、「機械論的な」自然の見方も、さまざまな前提のもとで成り立っている自然認識の一つのめがね。自分の見方を相対化する前に他者の見方を排除するのは傲慢というものだ。
花の知恵 (プラネタリー・クラシクス)
『花の知恵』(メーテルリンク著。原題は「花の知性」)という本がある。そこには、植物のていねいな観察と描写にもとづいて「花の知性を明かす証拠」が挙げられている。今なら「ふしぎ大自然」とかいったテレビ番組などで目にすることができるかも知れない、動植物の不思議ないとなみについてである。
ただ、その本に展開されているヨーロッパ的な思考の枠組みや概念装置というよりむしろ概念習慣とでもいうようなものに、同意はできないし、それらがもつ制約は見過ごせない。たとえば、「花には、光の方へ、精神の方へ向かおうとする植物の生命の努力が結集されているのである。」
それでもなお、傾聴に値する言葉が多々あるので、いくつか引いてみよう。

理論とは切り離してもっぱら事実を見てゆくために、花について語るに際しても、あたかも花が人間のように予想を立て構想を描いて事を実現してきたかのように語っていくとしよう。そうするうちに、人間に準えた見方をせずにあくまでも花の領分としてとっておく必要のある事柄や、人間の方がむしろ花の領分からあらためて取り上げなければならない事柄といったものが見えてくるだろう。さしあたり今、花は舞台にひとり在る。(P.50)

そもそも、われわれが属や種につけている名前は、最終的にはわれわれ自身を裏切るものなのだ。人間はこうしてさまざまな想像上の花の型を作り出してきた。しかもそれらが固定したもののように思い込んでいるが、花の型というのは、おそらく、ゆっくりと変化する状況に合わせて少しづつ器官を変えてゆくひとつの花の、さまざまな表現形にすぎないのである。(P.97)


 生物進化の系統樹は書き換えられていくものである。つまりそれは人間が自然を見るまなざしの一つである。しかし、人間にそう「見える」ということが、容易に、自然がそう「有る」かのように思い込む。そういう転倒こそが人間だ。人間の知性が根本無明を代償にして得られた明るみであることの証である。「見る」と「有る」とは人間においては離れてしまっている。離れてしまっていることに気づかないため、無思慮にいっしょくたにしてすましている。「見る」と「有る」とが合致した時、そこはエデンの園かもしれない。
残念な点もあげておこう。自然が持つ観念・手段・好み等が人間のそれに近いものだと言った後、それを反転させて、「もっとも人間のそれが〈自然〉のそれに合致しているといった方が正確であるに違いない」 と言い得たにもかかわらず、また人間が人間固有の美を創り出しているとか、自分たちのものと思っている美のモチーフは「ことごとく〈自然〉から直に借りてきたものなのである」という「注文の多い料理店」序文を思わせる洞察に達しているにもかかわらず、この発想を忘れてしまったかのような叙述が、以下繰り返される。
植物が、ひいては「地球霊」とか「宇宙」が、思考したり、目的を達成しようとさまざまな手段を用いたりするという語りにおいて、しきりに「人間と同じように」という枕詞が付されており、結局、人間中心主義的なトーンが色濃く出てしまって終わっている。「人間の精神は宇宙の精神と同じ源泉をもっているのである。われわれは同じ世界に生きていて、ほとんど対等なのである」というに至っては、強度の同一性ヘッドギアがはまってるなあと言いたくなる。