網と矢:聾学校にて。

声は網。目線は矢。そんなことを思っている矢先、聾学校の学校祭に行った。まず見たのは、幼稚園の子どもたちの授業。リズム遊びをしていて、思いの外にしっかりと音楽を聞き分けて動作をとることに驚いた。音楽というと語弊があるかもしれない。彼らは補聴器をしている。補聴器という器械で言語を聞き取るのは多分困難だろう。言語を聞くとは音を受信することには尽きないから。ただ、リズムや音の高低が判別できることは、彼らの行動が十分示している。
十人に満たない子どもたちが先生のもとに集まる。先生はむろん手話で語りかける。そして時折「みんな」と言って語りかける。ここで「みんな」が成り立つのか。どういうそれが成り立ちうるのか。大学でも幼稚園でも「みんな」呼びかけをしても聞いていない人、名指しされたり指さされたりして初めて、みんな呼びかけは自分にも向けられていたことに気づく人がいる。
声は「みんな」を捕らえるのが得意である。授業中、ケータイのディスプレーをながめてる学生にも、網はかかる。授業であればノートを取るために下を向いている人が多いというのが、教壇からの眺めである。
聾者には、その声に接触される可能性が断たれている。言語は目に触れるものである。発話者を見てないけど聞こえているという曖昧な状態はあり得ない。見るか見ないかが聞くか聞かないかである。その分、ひとを受け容れるか拒否するかの選択がはっきりと当人に任されている。そこで「みんな」への語りかけとは、あいまいな「みんな」ではなく、多数の受け手の一人ひとりが発話者をしっかり見るということに於いて成り立つ。個々が目を覚ましている、緊密なみんなとなるであろう。そんな場で話すとしたら、弁慶のような状態だ。ぼくならきっと仁王立に堪えられない。
話し手側と受け手側とで丁寧に事態を見分けねばならないし、目の言語の可能性のみならず、身体言語としての手話ということも熟慮が必要だが、膨大な話になるので、ひとまず擱筆
ぼくらは、特殊に見えるものを通して普遍的なものに行き当たるのだ。