網と矢:妙好人の宗教経験の場合

浄土真宗妙好人と呼ばれる篤信の人達がいる。その中でも先鋭的な宗教者、浅原才市のエピソードが伝えられている。真宗という宗教の核心は信心である。信心とは、仏法を聞くことにおいてその真理に満たされる体験とそこから伸びてくる道のことである。それで、信心とは聞くことであると言われる。聞くことに射す光がおのれの来し方行く末を照らす。行く末、それは浄土と呼ばれる。
才市のエピソードを聞くためのもう一つのまえおきは、『御文章』という著作。教団化を拒否していた親鸞の宗教を、受け継ぎつつ浄土真宗教団を形成するのに力を発揮した蓮如が、真宗教義を平易な手紙形式で著したのが『御文章』。教祖が湛えるものは深みや高みである。教団に求められるのは拡がりである。(親鸞浄土真宗の教祖と仰ぐのは、後の教団からの視角であり、親鸞自身は浄土真宗の教祖ではない、という強調すべき点は今は措くとして)、教団形成とは信者さん獲得、そのためには平易さが鍵を握ることを考えれば『御文章』の果たした役割が想像できる。
才市のはなしに戻ろう。聞くことが信心である真宗の宗教的行はおのずとお寺でお説教を聞くことが中心になる。あるお説教の時のはなし。説教者いわく「往生浄土の身になるということは、富くじ(今なら宝くじ)にあたるようなものだ。今からくじにあたった者を読みあげる」といって蓮如の「御文章」の一節を読み上げる。「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは」と、ここまで来たとき、才市が突然「当たった!」と立ち上がって喜んだという。
さとりを求めて出家もしないから、何回生まれ変わったって同じ、迷いっぱなしの人々。「罪悪深重」を本質とする人間。それが救いのターゲットだということを、教義として受けとめるなら痛くも痒くもない。「あさましきわれらのごとき凡夫」と言われてさえも、である。しかし、ひとは才市でもあり得る。
網である言葉を矢として受けとめるとはこういうことである。矢を受けた者が発する矢が、かけられた網を破って飛んでいくようなおもむきがある。前回言った、聞くという体験は覚知である、ということの実例である。