客観語に親和性のない現実

野球の試合を最初から最後まで見たのは15年ぶりくらいだろうか。WBCの準決勝で、解説者が言っていたことがおもしろかった。実況中継のアナウンサーが、その時の投手のコメントを紹介していた、すなわち「スピードガンで計れる速さとは違う速さを目指したい」と。速度は数値で表され、それを尺度に比較される。150キロの球は140キロの球より速いということは幼稚園児でも分かる。しかし速さの臨場経験としては、数字に還元されないものがあるということである。新幹線の速さに関してはこういうことは当てはまるまい。こういう類のことはスポーツの世界ではめずらしいことではないであろう。数字に尽きないものなくして、スポーツはあり得ないし、スポーツの面白さも成立しないだろう。10対6という試合結果は試合の過程を見たものにとってあまり意味をなさない。面白さは数字から出てくるのでない。逆である。
数値化されない、客観化されない、現場から離れては見えてこないような、すなわち経験世界の、言語不可能性が顔を出したコメントに対して、ゲストの現役選手が、間髪入れずに応える。「キレですね。」至極あっさりと、何一つ珍しいことはないとでもいうように応えたのがまたおもしろかった。キレって一体なんだろう。体験としては明白で説明を要しないだろう。しかし、経験世界の言語化に憑かれているものにとっては、「体験すれば分かる」では、おさまりがつかない。言語を拒否する世界を言語化することこそ、おもしろい仕事なのだし、それは言語の発生する現場に立ち会うことであり、その世界を体験的納得における共有状態とは別の共有状態にもたらして普遍化することだからである。球のキレとかノビのある球とか、試合のナガレとか、明らかにあるけどデーターとして処理できないもの。あるいは味や匂いを数値化するような具合に、むりやり処理できちゃうのかな。コツというのもおもしろいですね。外国語でもこういう事を言い表す言葉があるだろう、か。