櫻・狂・西行

   春風に花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり
なんて鮮烈な夢だろう。なんて鮮烈な寝覚めだろう。起きてからの胸騒ぎの脈動はいかばかりか。こんな夢を見るほどに櫻に憑かれていた西行の、櫻の歌は、狂おしいものがおおくて挙げだしたらきりがない。西行のような人のおかげで、思うようになる。櫻を見て、きれいだなどというのは観念だ。頭の中の既成観念をなぞっているだけで、何の感受もない。梶井基次郎の「櫻の樹の下には」とか安吾の「櫻の森の満開の下」とかのような想像力はたやすくなくとも、「櫻がきれいだ」などと表層的な認識(それは感受性を欠いた知識のようなもの)を繰り返して花の下にいても花に届かない閉じこもりのあり方を脱するには、西行の歌の一つもって花の下に佇んだらよいと思います。
   世の中をおもへばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせむ
世の中は無常だ、と人は言う。これは真理であったとしても、一般認識としての真理は自分にとって痛くも痒くもない。せいぜいこそばゆいくらいだろう。その認識が矢となって自分に刺さる。世の中ではない。「我が身」のことだ! 無常とは認識ではなく、自らを愕然とさせるものだ。それが感受というものである。
   花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
花を見て、苦しいと感じたことがありますか。