「形なきものの形を見」、さくらの花の絨毯を踏む

花びらが散っている道路の写真。何が見えますか。道。その道の状態、土か、アスファルトか。そして散っている花びらが何の花のそれか。桜か梅か椿か。いえいえ、写真に写ってないものがみえるでしょ? 写ってないからこそ、目に見えてしまった限りの限定性を超えて、自由なイマジネイションが枝を拡げるでしょう? 木が見えますか。その大きさも、風も、その強さも、風の凪いだ静けさも、空気の湿度も。
イマジネイションとはありもしないことを空想するだけのことではない。視覚によって平面化された現実の、奥行きを察知する力だ。
「形なきものの形を見、声なき者の声を聞く」というのは西田幾多郎の有名な言葉だが、日本文化の根底にあるものという脈絡はカッコにくくって、見るとはそもそも形なきものの形を見ることだという、見ることの本質をとらえた言葉だと思われる。特異な体験などではない。形を見るということは、見えていないもろもろのものに支えられている形を見ているのであり、しかも見える形は見えないものに背景づけられ、背景的な見えないものをその前景においてはとおりぬけるように妨げなくかいくぐって、見えているのである。
子どもが裸足で歩くのをやめさせてはいけない。もちろん大人も裸足になればいい。花のじゅうたんを歩く時の触覚はどんなものか。その体験がイマジネイションの源泉だ。体験において出会われることは、そもそも人が教えることなどのできないもの。その体験というものを妨げることを正当化するには、よほどの理由がいるはずだ。
花のじゅうたんを裸足で踏んだ者は、『大無量寿経』で説かれる浄土の描写を、実感をもって読めるだろう。その体験的実感をはるかに超えるものだという実感をもって。