蝌蚪の大国

  川底に蝌蚪の大国ありにけり  鬼城

蝌蚪(かと)というのはおたまじゃくしのことです。この句について毎日俳壇選者の大峯あきら氏は『花月コスモロジー』(法蔵館)という著書の中で、村上鬼城を「近代俳句の最高峰をきずいた俳人」と評してこう述べています。     哲学の仕事部屋から 花月のコスモロジー
「自分の神経と感覚だけをたよりにして、小手先の技巧を誇っているような今日の俳句と比べて、何という悠々たるスケールと深い感情を蔵した作品でしょうか。」
この春、息子と田んぼの用水路あたりでおたまじゃくし採りに興じました。人の気配を察するとすぐ隠れてしまうのですが、出会い頭には10センチもあるようなおたまじゃくしが姿を見せるので、その大きさに驚きつつ網を入れる。とれたのは、そこまで大きくはないのですが、がまがえるのおたまじゃくしとのこと。
目に見えるだけの世界が世界ぢゃない。世界の断層を目撃することが豊かに生きることだ。動植物に関心の薄い私でも、泥の煙幕に姿を隠す、川の主のごとき風体を見て、別世界を感受することは不可能ではありません。水中メガネで海をのぞくだけでも異国は広がるものですね。
おたまじゃくしはすぐ蛙になるものだと思っていました。ところがいつまでたっても、うちに来た子はおたまじゃくしのまま。息子が言うにはがまがえるのおたまじゃくしは越冬するとのこと。え? そんなのあり? 40年ほど生きてきて初めて知りました。それと共にかの句がなんだかリアルになりました。おたまじゃくしの姿で一年以上過ごすのだ。蛙の子ではなくおたまじゃくしという生き物のようだ。蛙の國ではない、蝌蚪の國が実在するのだ、それはもう大国と言うべきものだ、と。
秋の方角から風が吹くようになったこの頃、息子は小さな足が生えてきたと言っていましたが、私の目には映らないのでした。