いざよふはまかり成らんとばかり風神席巻

天気のデパートのような日中だったが、夕方子らと薄取りをし(その余りのぬけなさに息子はおおきなかぶのお芝居を始め、彼はおじいさん長女はおばあさん、私はどういうわけか豚として呼ばれ、うんとこしょブー、どっこいしょブブー、と言ってようやくぬけました)、いざよふどころか忽然といつの間にか出ている満月に出くわしだっこしている末娘のひとりは「ウワアアア! ウチャギ、ミエニャイネエエエ」、ただちに酒と杯もって飛び出し、息子に誘われて小高い墓場の一番高いところで月見をする。彼と三歳近くなってようやく話せるようになった末の娘が、犬の遠吠えさながらに、延々と月に向かって大声で呼びかけている。私も加わる。彼女は「ウチャギ、ペッチャンペッチャン」と餅つくそぶりをして楽しそう。そのうち、案の定彼が月に触れたいなどと言いもって手を伸ばしているものだから、ほらここに落ちてきたと月を浮かべた杯を示して月の水だといって飲み干すと、それお酒でしょなどと言われたので、彼にもちょっぴり飲ませる。
海で月見をすべく急遽団子を作った妻の車で海岸に着く頃は大雨。昼も夜も、風のなせる業。
夜中、家の電気を消してうろうろする。四方の窓を見て回る。どの窓も仄明るい。直接月が見えるのは、南向きの縁側のみ。15㎝ほどの光の筋が廊下に落ちていたので、寝転がってみると辛うじて、眩しい月が見えた(そのまま眠りかける)。南中した頃だったのか、月を目の当たりにできたのはそこだけ。でもその縁側から庭を望んでも、街灯があってあまりいい色ではない。月が直に見えなくても、他の三方の窓からだってしっかり月は見えている。どこからも軒が濃く刻まれた影を見る。仄明るいのだが、青白いようでいて緑白いとでもいうような、緑がかった光、緑を帯びた影(光と影のいづれをもさす「月影」という語のなんと見事なことか!)。やはり、北向きの廊下からの裏庭の風光がいちばんよい。
月見とは月を直接見るというより、月に照らされた世界を見ることだと知ったのは、学生の頃に成就院月の庭で宿直ボランティアをした時のことだ。月の庭の縁から月は見えない。
詩作するものの端くれとして、この月影世界を描写することができれば本望だ。でも、それは未だなしえていない。それを成就しないと成仏できない気がするなあ。14ひきのおつきみ (14ひきのシリーズ)いわむらかずおのこの本は、月影の色が見事なおかげで、時の流れも、ゆったりと厳かな空気感も表現し得ている逸品だ。この本で、それまであまり好きでなくて気にとまらなかった14ひきのねずみシリーズを始め彼の作品に、好意を抱くようになった。