行為・関係性・業

もうこれ以上このネタで引っ張るのは今日でやめましょうね。
「罪を憎んで人を憎まず」、罪は憎むが実体である人は憎まない。その人とは、日本語を話し、日本的主情主義・日本的情緒を共有するかぎりにおける人である。そういうふうな人間のみを人間の範囲と限った上で、人間に悪い人はいないと考えれば、この言葉は「日本教徒」の「条理」になる。
人は実体ではないから憎まない。実体なきものは憎めない。罪はない。根を切られて、そこでは善も悪もない(そここそが道徳の成り立つ余地のないところに発生する宗教の本場だ)。根を切られた善悪がその都度のものとして、行ぜられる。同質の行為において自他を超えて連帯する。そういう行為連環としての世界を業と呼んでもいい。無根拠はとめどなくおそろしい・無根拠は晴れやか。
要するに、悪人がいて悪いことするのでなく、悪いことするところに悪人が出てくる、という見方をとろうというのは、この見方は生きた見方だからである。生きた見方が生きた現実を捉えることができる。
例えば、飛躍するようだが、いじめたりいじめられたりという流動的な(場合によって一過的な、一回的な)現象、行為という動詞でしか叙述できない事態を、いじめと名詞化して、それを「いじめがあったか」などというのは間延びしてる。無駄とまでは言わないまでも。動詞の名詞へのすり替え、名詞化的把握が、事態を捉え損ねてる一因であるように感じられるのである。