善悪のタマネギ 芯が改心の希望

《悪人がいて悪いことをするのではなく、悪いことをするから悪人》という見方を採用しようという話をしている。その3回目。上の句を換言すると、《悪いことするかぎりにおいて悪人》。「罪を憎んで人を憎まず」ともいった。
ってことは、「人を憎まず」つまり悪いことしてなければ善人であり、人はもとはいい人ばかりで、もともとの悪人なんていない、という具合に理解するかもしれない。そしたら、「へえー、意外。西元は性善説か」なんていう声が聞こえてきそうである。誤解はといておかねばなるまい。だって、「人間存在はその根底から悪だ」「現実をよくみれば人間は悪と言わざるを得ないでしょ」なんてことを授業で懇々と説いてる私の言うことなのだから。
性善説性悪説かという話ではない。これは、「性」ということで実体的な何かを想定している発想であろうから。タマネギの皮むきを考えればよい。芯に善があるとか悪があるとか思っている、その芯が皮を担っている。こういう発想だろう。ぼくが言うのはそうぢゃない。皮が善であり悪でもあろうけど、芯なんてないよ。だからそのつどの悪や善が大事になってくるんだということなのである。
《悪人がいて悪いことをするのか、悪いことをするから悪人なのか》。悪いことするかぎりにおいて悪人。更に敷衍すると、いいことしてるときは善人。つまり、善や悪は実体ではない。行為という、時々の状況から発生する何かである。
この見方において人は、何処までも改心の可能性を残す。ヒューマニズムや人権思想から改心の可能性を考えているのではない。行為というそもそも実体ではないあり方をしているもの・転変するもの・改まっていくもの・だから改められるのである。実体否定という、現実の生きた姿から考えている。その現実把握は仏教では縁起・空という形で徹底されたものだ。