子どもの言葉(3)天地無用

熱を出して寝床で寝ている息子が天井のホコリを見つける。一緒に寝転がって、ある詩をよむ。そうしてその詩中の「対蹠」という語を説明しようとすると「堆積岩?」と聞くので、そうぢゃなくて、といって説明する。
(手を球にして)たっしーがこうして立ってるでしょ?で、地球の裏にも人がいてこうして立ってる、これが対蹠。どうしておちないんだろうね? そうたずねると、彼は「そういうのおもしろい」ってにこにこしてる。うん、おもしろいよねえ、と応える。ほんとにこれはおもしろい。拙著の重要なテーマでもある(118頁ほか、第3篇「空のありか」参照)。「ひとたちが落ちていかないのかなあ、下に。」
しばらくして、思い至ったように言う。「ほんとは上下ってないよ。右左も。」そうなんです。そしてぼくらはそういう「ほんと」を生きていないんです。あるいは、そういう「ほんと」とは何ものの視界であり、何ものの感覚なのでしょうか。そういうほんとが自分にとっての本当になるとき、そこは「エデンの園」だとぼくは授業で話しています。
彼は長い間えほんをさかさに眺めるのが平気でした。ものの本によると2歳くらいになると自然と逆さに読まなくなるなんて書いてあって、実際他の娘達は2歳や3歳になると、逆さに読もうものならブーブー言い出しました。でも彼は違いました。股のぞきを奨励している僕は、写真や絵本を時折、逆さまに読むことで健全な世界観維持を試みていますので、息子がつい先日も、いまだに、でも久し振りに、図鑑を逆さによんでいるのを見てほほえましくなりました。
「(上下、左右を)誰が作ったんだろうね。地球はまわってるからね、すごいはやさで。」だから左右はほんとは成り立たない、と結ぼうとしていたのであろうが、話が展開して、「はやすぎて上に落ちない。飛行機が飛んでるンぢゃなくて、地球が回って行くところについたら着陸するんだよ。」
おもしろい話がどんどん出てくる。いつか僕が書いた詩でそんなのがあったなあ。でも続いてこのオチ、「くものいとって鼻水だよ。」