園長一年;名を呼ぶことで成り出るもの

新学期が始まって一週間。今年は入園式のあいさつで頭の中が白くなることもなく、保護者の様子を見ながら話を縮めつつも、まあ少しは言うべきことも言ったかな。頭はだいぶ白くなったようで、というと大袈裟だが、先生方に白髪が増えたことを指摘されつつ、いささか心配されつつ、園長業に邁進いたそう。
昨年初め、皆におどろかれながらはじまった園長だが、すぐに先生方は――こちらのムズ痒さなどおかまいなしに――「園長先生!」と呼んでくれるようになった。実質的に何もできない園長に対してもすぐさま、である。そして、そう呼ばれて、ぼくは園長になっていったようである。
まるで乳児期の反復だ。
私というものがどういう仕方で成立してくるか。まだ、自分という意識もなく、したがって自分は自分だなどというアイデンティティーも持ち得ずにいる乳幼児の経験は、統一性をもたない雑多な体験のつながり、もしくは断片である。そこに安定性や恒常性を持ち込むのは(成立させるのは)母親や身近にその赤子の世話をする特定の人で、日々多様な表情や接し方をしつつも統一的なコードを発して迫ってくる。そのひとはいつも太郎ちゃんと言って迫ってきたり抱いたりする。そうして、雑多な印象や体験に太郎という括りができる。そういう捉え方ができるようである。たとえて言えば、林の中に雑然と落ちている木ぎれを太郎という紐でくくる。私とはその紐だ。私の中身は林に落ちている木ぎれと変わりはない。
そしておもしろいのは、私というアイデンティティーは他者からもたらされるということ。しかも呼ばれることで私なるものが現成するということ。まだ実のないものの名を呼ぶことが実をもたらすということ。
園長先生という呼び名が園長先生という存在を成立させたとは、まるで乳児期の追体験でもしたかのようぢゃないか。