遊び;底も抜かずにかえるのか

大学が初日。天気がいいので、外に出る。「西元教」という言い方があるらしいことを聞いてはいたが、初めてそういうささやき声を直に耳にした。
遊びについて考える。教室で考える。考える場と遊ぶ場との場違い。客観性。場違いは不誠実。すくなくとも相互浸透を。遊びながら考える、それとも遊びが考える。いや、遊びの現場は考えない。でも遊びから思惟がわく。非思惟から思惟が生まれる。そしたら、遊びの場が質を変えつつ自己拡張する。遊びの思惟的展開。メタモルフォオオオオゼ。
遊ぶ。遊ばれる。内発性、強制によっては成立不可。でもきっかけは外発的なのもアリ。だって、「花子ちゃん、あそぼ」とか「かくれんぼするものこの指とまれ」とか。
入っていく、熱中、集中。輪ができる。散乱する。周りが気になる。周りに出ていき自らが傍観者になる。遊びは見るものではなくするもの。遊びのありかは周辺でなく、中心。体験ということがそもそもそういうこと。遊びの力、求心力、この指とまれ。そんな遊びの本質性格が遊びとして目の当たりになるようななべそこ。
今は水のない、噴水付き人工池のお風呂に入ってもらって、なべなべそこぬけ。二人から始めて四人、八人と拡張。思いの外できないひと多くて笑える。視線が散乱してる。人目を忘れるには走ることだ。このお風呂の中で手つなぎオニ!この人がオニ!さあ、逃げろおおおお。といったら、ほとんどみな境界である風呂から上がっちゃって、そういう意味ぢゃねーだろ。あ、そういう意思表示ですか。んぢゃ、おしまい。
ナベナベソコヌケソコガヌケタラカエリマショ