漢字工作

昔の人の暮らしとかいう事典をみながら石斧、槍、弓矢を作ってみたり、理科の実験的なことをしてみたりが好きな息子が、ぼくが帰るとこんなものを見せてくれた。
      [
竹串を切って作った弓矢。その形は、「弓」という字と「矢」という形をしてる。その後、弓という字はこういう形だから、それは弓を射るときのこういうところを字にしている、と紙に書いて説明しながら片目をつむって力をためて弓を射る格好をしてみせる。
[ ]
漢字という象形文字を、形象に戻して把握し、さらにその形象を立体に造形する。そして、言う。「父さんも漢字工作してみたら? おもしろいよ」この「漢字工作」という命名も穿ち得て妙である。漢字をこんなふうにここまで楽しむとは、おもしろいなあ。たいしたもんだ。
担任であるS小学校S教諭の影響も少なからずありそうだ。1年生の時、2学期になって漢字を初めて習う時の導入に、なにやら話をしているようだ。その時に出てきた「漢字の神様」の名前を彼はよく口にする。無機質な漢字の暗記や練習以前に子どもの興味関心や意欲を高める指導があったのであろう。年間何文字覚えるとかいう授業内容とは直接関係のない「役に立たない」ところが、むしろこんな遊びに至らせる動機となり、漢字を楽しむ下地になるのであり、その先生の教授をありがたく思う。
「漢字の構造は、その文字体系の成立した時代、今から三千数百年以前の、当時の生活と思惟のしかたを、そのままに反映している。あるいはまた、それより以前の、文字がまだなかったいわゆる無文字時代の生活と思惟のしかたが、その時点において文字に集約され、その一貫した形象化の原則に従って、体系的に表現されている。漢字の歴史は、その無文字時代の意識にまで、遡ることができるものといえよう。文字の発明が、人類の文明への最初のステップであったとするならば、漢字は文明以前の原始文化を、文明への最初の段階において形象化し、文字としての体系を与えたものということができる。」(白川静『字統』)
「形象化」という時の「化」という文字が、変容の現場、即ち生きたもののありかを指し示している。文字だって、死物じゃない。
漢字工作をしていたと思ったら、運動会に雨が降らないようお経をあげて願掛けをしたがったので、お願いごとなら阿弥陀さまじゃなくてお星さまにしな、と言うと、麦酒を飲んでいる父を後目に星空に向かって「正信偈和讃」をあげている、ほんとおもしろい人である。