過去の生まれ方

奈良大学の仕事を終え、控え室のレターボックスの整理をして、事務の方々にあいさつしにいった。4,5人のスタッフがいっせいに立ち上がってあいさつしてくださり、胸の内で飛来した思い。いろいろご迷惑をかけたろうな、外で授業するごとに何か騒ぎでもあるかのように見に来られたり、提出物が遅れたり、授業の30分前に印刷を頼んだり、ぼくの講義を聴いて人権侵害だと騒いだ学生の間に入って、ぼくは火に油を注ぐことを平気で言うし、その親を巻き込んでの調停せなあかんかったり、ぼくの知らないところでお騒がせしたんだろうな。そんなことを思っていたけど、口には出せなかった。
電車に乗る。景色は流れてゆく。電車が進むごとに、奈良がどんどん過去になっていく。関西で講師職であるときには、つまり、現在というつながりを持っていた時には電車が過去を生み出しながら走っているなんて生じたことのない感懐だ。
京都から山陰に越すとき、京都西山を最後にタクシーで下った。バックミラーに映る親しんだ山がどんどん遠ざかって行くときに感じた名残惜しくて、張り裂かれるような、単純で強い寂しさではない。
講義というかたちではなしつづけ、実験室し続け、試み続けたことは今だって現在で、それはぼくにとって過去になることのないものという確信はあり、それは幼稚園という場面で、違うかたちで実現しようと思っている。にもかかわらず、今のいとなみのある側面が、たしかに過去になってしまった。
電車はどんどん奈良からはなれていった。