有り難うが体に震動する

京都でお別れ会をしてもらいました。主に学生さん、大学や専門学校、院生、OBOG、10年も前の受講生、モグリ常連の人達、ブログの掲示板をみて駆けつけてくれた人等々、30人近くもの人が来てくれました。
土曜日以来の深酒と宿酔いのせいか、娘のノロウィルスに感染したのか、体調は絶不調。やっぱり元気のありかはハラ(腹・肚)だなあと感じながら、待ち合わせ場所でたくさんの顔、久し振りの顔を見た途端、スイッチでも入ったように元気がほとばしり陽気がはぢけた。そのせいで、警察官が近寄ってきていたらしいのですが。
せっかくおもしろい人たちが集まってくれたのに、お互いを知らせあう(ぼくの苦手な「自己紹介」とか)何かをせず、知らない人どうしのまま帰してしまったのが、大変悔やまれる。ぼくはこうしていつもぐずぐずと後悔している。このぐずぐずをどう克服するか、つまりどうつきあっていくか、そんな小さなことに纏綿され続けている。スパッと切れるときは切れる。切れないときこそが、問題。時間が解決してしてくれるとか仕方ないとか、それでおさまるほど生やさしいものぢゃない。ちっぽけなことのくせに力が強いんです。そんないやな状態は到底受け入れられない。で、向き合っちゃうんです。そんな裏日本的モードの中にこそこんな詩と出会います。


     奮起
  思いをこめてとげることの
  あまりの少なさに
  俺は力強さを感じ
  勇気が溢れてやまない
  いつも遂げることができず
  満たすことのできない自分の広大さよ
  満たされぬといふのは
  足りぬことではなく
  限りなさの徴




宴会の中頃、ちょっとした演出があった。大皿ほどもあるお腕のよう器にデザートが盛りつけてあって、お礼の札が立ててある。それを送られるとき、おもしろい経験をした。西元先生ありがとうとみなが声をそろえて言ってくれたのだが、その言葉が、どっと押し寄せた。四方からの声が皮膚を覆って圧した。ありがとうを体で受けた。言葉の震動が届いたというのか、音が波であることがリアルになったといのか、波動というと一挙に胡散臭くなるし、温泉なんか行くとあるジェットバスみたいな皮膚感覚と圧迫感といったら近いか。はじめての体感でした。
きてくださった方々、あらためて、愉しいひとときを共に過ごしてくださってありがとうございました。様々な事情で来られなかった方、残念でした。でもきっとまた、会えますよ。いやあ、ぼくぁ果報者だなあ。