大いなる無理

四肢という安定における前肢の上に頭がのる。この安定性を捨てて下肢の上に直接頭というえらい重いものを載せるなどということは、大いなる無理であるように思われる。
それがために、前肢の躓きに左右されない神経系を獲得し、大きな脳を成立させ、前肢は手と化し、身体への直接の日照を四肢動物のような背面全体から頭のてっぺんだけという劇的な減少を遂げ、脳からの大量放熱を可能にし、長時間の移動を可能にするエネルギー効率のよい歩行を実現したとしても、地球上のいかなる生き物もそれを知らないであろう痛み、這う虫も四肢で歩く生き物も、下肢で体を支える恐竜やカンガルーでさえ知らなかった腰痛という必携的なおまけをもらった。
光と音という異質なものを一つのものみなすという大いなる無理をやってのけた時、言葉が成立した。たとえば発達障碍の子で、文字の読み書きは得意なのに、音声言語の言語としての受容や理解が困難である人がいる。それは障碍と呼ばれてしまうのであるが、そういう人の方ではなく言語の方がそもそも無理無体なのであり、そこに躓くのはいたましいほど真面目であり自然である。その躓きが、人間がいかに奇妙なことを当たり前な顔してやっているのかを、教えてくれる。
腰痛と言語障碍とは同質で、人間という構造上のひずみに由来する。病気や障碍というけれど、いづれもヒトにとって宿命的で、そりゃ当然だよという健全さがある。言葉という大いなる無理、つまり人という大いなる無理。