どこでもドアの行く先

「どこでもドアがあっても」と息子が言う。こんな時どこでもドアがあったらななどという軽口を、アンチドラえもんのぼくが、叩いてしまったあとのことだ。「地獄と餓鬼、お浄土には行ってみたくない」と言う。どこでもドアの「どこでも」は地理的な「どこでも」であろう。時間的な「どこでも」に使われることがあるのかは、知らない。そっちはきっと「タイムマシン」で行くのだろう。そんな、空間的な「どこでも」が前提になる道具を、六道という異世界に関して発想するあたりが面白い。
浄土好き?の彼なので「浄土も見たくないの?」とたずねると、「死んでからのたのしみにしとく」と言うので、「浄土は死んだあと行くところだと思っているのか」といったら、無言。
その後時々六道の話が出されたのだが、今日も真面目な顔で、「地獄に行くなら、まだ餓鬼の方がいい。」と、ほんとうに恐れているといった様子。