悪いと欲しい

充はゆり子が好きだった。というよりむしろ、彼女がハンカチを使う姿に参っていた。その白いハンカチが、いつしかほしくなっていた。充は、誰もいない教室で彼女のハンカチを盗むに至った。教室から出るとき、直子とすれ違い、目があった。彼は、急いでそのハンカチを持ち出すため、一旦どこかへかくそうと校庭に出た。隠し場所を探していると、ゆり子と直子が現れて、近づいてきた。ばれた!?彼女たちは近くまで来たが彼を一瞥するのみで、取り立てて何も言わなかった。
しかし彼は動揺して、そのハンカチを捨てた。盗んだ行為をも、それで捨てることができるかのように。
起こった出来事はこれだけである。
彼の意識はその後、悪いことした時モードになっていた。盗みという行為に胸が締め付けられ続けた。盗んだ「もの」を捨てたところで、盗んだ「こと」は消えるわけではない。ばれずに済んだということで済むなら、胸は痛まない。
その行為に付随するのは信頼関係の喪失である。ゆり子との、それまでの信頼関係はこれで大きく揺らいでしまったように思われた。直子の視線も気になった。彼女は、自分を盗みをする男だと思っているだろう。それをゆり子にも言ったであろう。盗人扱いはその二人にとどまることはない。他人(ひと)は、自分をあやしい人間だと警戒して見るにちがいない。教室での空気は気詰まりなものになるであろう。自分の教室での地位、敷衍して言えば社会的地位は、おちた。
それでも、盗みが現行犯逮捕されたわけではない。もし、そうなっていたらと想像すると、恐ろしくて身震いがした。
倫理的な苦しみ、ひとに対しての苦しみを得て、信頼を失って、その行為に至らしめたハンカチも手に入れてはいない。失うばかりで何一つ得てないではないか。一つだけ残されれば、他の苦しみは乗り越えられるのではないか。手にしかけて失ったが故に、ハンカチが以前にも増してもうれつに迫ってくる。せめて、悪行の代償にハンカチだけは手に入れてしまえばよかったのではないかと思うと、惜しくて惜しくてどうしようもなくボーっとなって、何も手につかない。以前はそこまで思ったことはなかったほどに、まるで顔中に白いハンカチがまきついたように、寝ても覚めても離れない。
充は、胃腸が圧迫されるような昼夜を過ごした。口に薬のような分泌物の味を感じながら、気力の萎えた数日を送った。
・・・これをもっと簡略化したものを、昨夜布団の中で話をしてと言ってきた息子に話した(ハンカチはダイヤ)。すると、ダイヤを捨てずに返したらよかったのに、と言っていた。ぢゃあそうしようと、その箇所を変えたバージョンの話もしてみた。
さて、読者諸君、充は重層的な苦しみのなかでのたうち回っているのだが、あなたなら、その中でのたうち回らせる力として一番強いものはなんですか。ほしい、おしいという圧力。取り返しのつかないことをしたという後悔の力。ゆり子に対する負い目の圧力。人の目の圧力、イマジネイションの力・・・。