三分間の死

漱石はいわゆる「修善寺の大患」で「三十分の死」を経験する。漱石みたいに深刻なものではないが、なぞらえて言えば三分間の死を経験した。
初めてしらふで意識がなくなった。急な腹痛と吐き気で便所に駆け込み、その途中で出会った息子に「たらいもってきて」とたのむ、便座に座り遠くで息子が聞き返す「お風呂のでいいんでしょ」「うん」。そこから、プツン。気を失っている間は私にとってはブランクだ。意識が戻ったから、それは3分という「間」なのだが、そのままだったらずっとブランクだ。そしたらそれは間としてのブランクとは別物だろうし、死という状態と近しいだろう。そこから翻って、ブランクは死の状態が、この世に食い込んできてブランクを開けたような境位に、僕は置かれていた。それを僕は知らず、見ていたのは息子と妻だ。息子は背後に向かってくず折れる私の姿に驚愕し、大声をあげて泣き、膝をゆすったが何の反応もない。しばらくして妻が駆けつけて揺さぶっても反応がない。目はあけたままだらりとしている。これはいってもうた、と思ったらしい。
フィヒテは、死は他人に対してのみあるのであって自己に死はないというようなことをいったようだが、まあ、そんな自己の本質的にかかわる境地などとはいえないけれど、ちょっとそんなことはわかるような体験でした。