ハプニングににじむ日本教

市民運動会というものに参加した。ラジオ体操は今でも恒例のよう。何十年ぶりだろう。「できるかどうか怪しい」と隣の人に言ったら、「体が憶えているよ」といわれ、ほんとうにそうだった。なので、前でお手本をする人が一か所間違えて別の体操をしたのがわかった。ほとんどの人がお手本にならっていたが、ぼくは正規の体操をした。そのあと少しざわついていたから、多くの体は違和感を覚えていて、ちょっと遅れて頭の方も気づきだしたのだろう。
これは怖ろしいといえば怖ろしい。「右ならえ」というヤツだ。
日本人は無宗教だというのは嘘で、「日本教」というべき立派な宗教があるというのはイザヤベンダサンほか指摘のあるところであり、ぼくも同感もし講義もしてきたことである。
≪手本≫言いかえれば「権威」に合わせる。≪まわり≫言いかえれば「みんな」に合わせる。この二つの合わせるべきものが、日本教のカミサマなのである。
考えることを放棄して身をゆだねる権威主義。責任の所在である私を隠して個人を成り立たせなくする無責任体制。無責任だから、責任というものの矛先は絶えず人(他人)にむけられている。「責任」の語につづく述語は、「負う」ではなく、「追及する」である。「責め」なので、責められないように先回りして逃げ口上を提示し、言い訳を考えておく。腰の引けた、事なかれ主義の、臆病な風潮が蔓延してる、でしょ? 「自己責任」という流行語が出てきたコンテクスト自身がこの発想の中あので、「自己責任」を語るのはその責任をとる「自己」ではない。なので、責任感が強い人ってのは案外アヤしいものなのである。
みんなという権威が、どれほどのものを台無しにしたか。何とかしよう。それがいかにおそろしいものであっても。