読書まつりに思う

境港市読書活動推進大会が「読書まつり」として行われた。いくつかの催しの中で、一箱古本市にぼくも段ボール一箱もって参加した。
「言い値」は売り手がつける値段、「付け値」は買い手がつける値段だそうだが、基本的に付け値で売った。相手につけさせて、そのちょっと上を言って交渉しようとも思った。ほかの人の箱にはみな値段がついていた。
 おもしろかったのは、これいくらですかと聞いてくるお客さんに、いくらで買います?値段付けてください、と言うと一様に困ったふうであったことだ。その人がつけた値段がその人にとっての本の価値であったり必要度であったりするだろう。あるひとは、この本はブックオフでは100円にはならないという理由で2冊400円で買っていった。
要するに、多くの人の迷いのもとは「定価」という前提であろう。「値段というのは自分と無関係に既に決まってるものだ、なのに値段を決めろなんて、そんな理不尽な」というような心境だろうか。でも、世界中の市(いち)ではコミュニケーションとしての売り買いが行われているだろう。国内でもぼくの知ってる弘法さんや天神さんのように値切るのが当たり前の関西ノリ売り買いが繰り広げられているところがある。
定価という発想に伴われるのは経済は客観的なもので価格とかは実体としてちゃんと決まっているというような思い込みであろう。
夜には星の観察会があった。なぜ「読書まつり」で星? 宮澤賢治の誕生日だからだ。
23万光年離れた隣のアンドロメダ銀河を望遠鏡で見る。これどういうことなのか。
そしてヘーゲルの誕生日。絶対者を中心に世界のあらゆることを説明し尽くした哲学の横綱。世界創造以前の神の計画まで語るというのは、神の懐にまで入り込んだという自負であろう。
100年しか生きない人間に、23万光年という遠さが目に触れる。絶対者・神というものが相対的な人間の根底におかれる。死んだ最愛の妹とし子の行方をぐるぐるしながら求め続けた賢治のように、死ぬということの不思議に打たれ続ける。こういうことがあって、ようやく人はしかるべき位置をもって、なんとか人として暮らしていけるのであろう。「人間的」「人間らしい」「人間味のある」「善人」等々の形容がこんにち当てはまる人はそのままで、そのようにあるがゆえに、「人でなし」とされる尺度があるということを二人の偉人は教えてくれる。