伊勢谷友介「セイジ」を観て

伊勢谷友介監督の「セイジ」が封切りになったので、早速妻と行こうと話していたら、なんと鳥取のような田舎では上映しておらず、それどころか全国的にもそうそうどこででも上映しているわけではなく、上映できるような劇場はこの辺にはないと思われ、するとDVD化されるのを待つしかないか。もちろん西嶋氏が主演であることから見たい欲求はすでに高まっているのだが、テレビで伊勢谷さんが映画について話していたことに強く惹かれて、たいそう気になっていた。すぐにでも見たい勢いだったので、がっくりだ。それを察した妻が見に行って来いという。細君の思いやりに棹差して、朝早く大阪に向かった。
静かな映画だった。テレビではゆるされない長さの沈黙の時間がある。色んな事が起こりすぎて収拾がつくんだろうかと、途中思わせるような映画だった。その、八方塞がっていく方にずんずん滑り落ちてゆくようなトーンは、ニイチェ的だった。いや、こういういい方はいやらしい。いいかえると、ニヒリズムが底の方から匂っていた。それが、ぼくの身心にとって定着のよいものだった。着なれた服のような感覚や状況もいくつも出てきた。世代感覚というものかもしれない。
問いの形に表すなら、いくつもの問いが見るものに向けられている。家族とは、夫婦とは何なのか。食べるとはどういうことか。働くとは? 労働の意味は? 動物を愛護するとは本当はどういうことなのか。「人間の傲慢」とは? 世界の死と人間の存続可能性とは? 助けるとは?救うとは(これがTVで言われていて気になった「テーマ」というやつだ)等々。
最近の「家族が大切」風潮を蹴散らすかのように、あるいは、それをその底から捉えなおすかのように、親殺し神殺しが、基底に据えられている。22世紀に人類が生きていくことから要求されてくるような倫理(それは既成の「倫理」概念ではとらえられないかもしれない。)が求められているといえるであろう。私も、大学で講義をしていた2000年代前半にそういう倫理を(例えば宮澤賢治の「なめとこ山の熊」に)模索していたのであった。
壮絶なクライマクスは、激しく泣けた。
次の日、映画を見てからずっと、心を占めている。そして胸がしくしくしている。思うに、昨日の涙の出方、その出所は、あまり経験のないことだが、「おおきな木」を読んだ時のそれに似ている。そして何かに触れてたまらなくなって涙が出そうになる。呑まずにいられないような気分になって、日曜であることをいいことに、昼間から呑んでいた。あんまり揺さぶられることのないところを揺さぶられる映画であった。