「いじめ」は何が問題か

また「いじめ問題」が話題になっているようであるが、この10年来の「いじめ問題」の問題の所在は、「いじめ」という言葉である。いじめるという動詞が「いじめ」という名詞になった時――僕は「気づき」という言葉同様の気持ち悪さを感じたが――連呼されるようになったと思う。(もちろんそれだけが原因だというのではない。)
そして、「いじめ」という語が問題を隠したり、そらしたりという機能を果たしている。「いじめ」が「あったのか、なかったのか」。いじめなのかけんかなのか、じゃれたりふざけたりしているだけなのか。そんなことが、よくいわれる。いじめとは認識していなかったという奇妙な逃げ口上が成立しだした。それは、誰が、言うことなのか。何のために言うことなのか。まるで呑気に「認識」したり「定義」したりしているかのような言説は、誰が、どっち向いて、何のために、そんなこと言ってるかは、言ってる人を見ればすぐにわかるであろう。「いじめはなかった」でもいい。「ケンカであって、いじめとは認識していない。」でもいい。人が死んでるんだ。それが何なのか、それをどうするのか、そういうことだろ。
それにしても、複数で一人に何かするというのは、それをいじめと呼ぼうがケンカと呼ぼうが、それはあかんやろ。しかも、一回ではなく、長期にわたれば言い逃れようがない。
この問題はだれも肯定しない。とーぜん。いじめた方は悪いに決まってるし、先生も悪いし、教育委員会も学校も悪いのだろう。いじめた側の親も、いじめられた側の親だって落ち度がないとはいえないだろう。いじめられた側に非を認めるのはタブーとされているが、生きて行きことが薄くなり死んでいくことが軽くなっている。生というのか意識というのか精神というのか、そういうものが脆弱になっている、というような、現代に汎通的な傾向は指摘できるだろう。
中学生にとって学校にいる時間が生活の大半を占めることによって、その大半が苦痛になれば、そこから逃げたくなるのは当然であるが、「大半」だからこそ、そこ以外の道を見出せないのはいたたまれない。学校なんて行かなきゃいんだ。それだけのことであり得たかも知れないのに。まあ、それを中学生に求めるのは酷であろうけれど。
ところで、本当にひどい話で、憤りを覚える人も多かろう。僕もそうだ。ただ、もう一つの問題は、他者に対して「ひどいやつだ」と言うことによって、自分がひどいやつでなくなるわけではない。他者に対して悪い奴だとどれだけ憤っても、そのことが、自分を善人にするわけではない。
それなのに、テレビの前で他者を裁くことによって、自分は善人の位置に居座ってしまうことで、かの、ひどい構造を生産したり維持したりしているかもしれないという恐れは潰えて行く。「いじめ」と意識しながらいじめていることに気づく道をふさいでしまう。