「読んではいけない」新井満の般若心経

息子が図書館で、般若心経と禅と日蓮の本を借りてきた。さっそく般若心経を、哲学的でおもしろいと言いつつ読破していたので微笑ましく思っていた。ところがその新井満の「自由訳」とやらの般若心経をみて自由訳とは訳ではないということがわかった。そうでなければ訳ということがわからない人なんだろう。日本語のページの左右の下に一応漢文とその読み下しが書いてある。そこはいい。訳文ならばその巧拙を僕に言う資格はない。しかし、原文がないページがある。「空即是色」と「受想行識亦復如是」の間には原文では余白しかない。しかし、その本ではこの間に何ページ分も書かれている。テキストに書いてないことが書かれているので、そこは無視してよい。それは新井という人の単なる感想である。直訳でないのはもちろん、意訳ですらない。書いてないことを書いてるんだから。しかも、その部分が読むに堪えない。「空即是色」は役割だとか、「感謝」だとか、どこからそんなことが出てくるか全く意味不明である。いや、新井さんからでてきたに決まっている。私の思想だといえば、別に大した思想でもないと片付けられるのだが、まるでそれを般若心経の内容でもあるかのように書くのは、我慢ならん。ほんとに憤ってしまった。そういう自分の物を勝手に持ち込んで、この人はテキストに対する誠実さもなければ物を学び得る姿勢もない。翻訳という営みは無理ですね。般若心経の方が新井なにがしよりはるかにデカいに決まってるのに、小さな自分のもちこみを般若心経であるかのように語るのは騙りだ。何たる厚顔無恥。そう言えば、ぼくが大事に思っていた「千の風」を「千の風になって」と訳して少なくとも僕のイメージを損ねる変な曲をつけた時もイヤだったけど、しかも大ヒットしちゃったからゲンナリだったけど、まあ、曲の好き嫌いは個人の趣味の問題だから目に余っても見過ごしてきたけど、この度は見過ごせない。息子には、ここからここは読まなくていい。ま、読んでもいいけど、この人の感想であって般若心経ではない、と注意しておいた。昔「買ってはいけない」って本が流行ったけど、それにリストアップするに足る。「読んではいけない」ってとこかな。
自分が今存在しているということを前提に導きだした必然性で膨らんでいる。だから、「あなたは宇宙大河の一滴、無数の一滴があつまって宇宙大河がなりたってるのだから一滴がなくなっても宇宙大河はなりたたない」などと大ぼら吹く人には、ケンヂの「光はたもちその電燈は失はれ」というかまいたちをお見舞いしたいものだ。「宇宙大河をとうとうと流れていくあなたのいのち」なんて、比喩としても意味がわからない。五木寛之のヘッドギアがはまってるのか、大河に一滴があるのか。「如衆水入海一味」をくぐらないがための「一滴」を残したまんまの文言のあとに「あなたとは宇宙そのもの」など断言するなど大変危険である。
要するに、自分のむなしさに徹してない、自分という枠組みの突破がなされていない。そして観自在菩薩に成りすまして「あなたはあーだこーだ」などとよくもまあ臆面もなく騙ったもんだねえ。
新井観自在菩薩さまの結論の教えは「こだわりを捨てて生きなさい。そして、いただいたいのちに感謝しながら自分の役割を果たしなさい」。なんで「そして」なのか、「そして」以降がどこから出てくるか不明なのだが、ま、日本で生まれ育った新井さんから出てきた「日本教」の教えで、ぼくが以前からずっと批判してるものですが(例えばこのブログ、2006-05-13,2007-02-13,2007-06-17等)、さすが新井観自在菩薩さまの「自由」からは般若心経にはないものがでてくるほど自由なのですねえ。
18〜45ページまでのお説教、多分そこで言いたいことを僕もはっきりと経験し、それを伝えたい情熱に駆られ、新井さんに似た語りを何十年も繰り返してきたから、もーれつにいやなんだ。「生きているあなたは奇蹟の様な存在」ということもほんとうは痛切にそう思うから、軽々しく癒し系コンテクストでいわれるのがもーれつにいやなのだ。でも「意味なんてない」に定位するからそれらとは全然違うんですけどね。