金木犀懐胎

木犀を身ごもるまでに深く吸ふ 文挾夫佐恵
甘くてとろけそうな匂いが空間を満たすキンモクセイワールドが、先日の台風で一気に蹴散らされてしまった。
吸うとは鼻先のことではない。吸ったものが腹までおちて全身に渡るのだ。そこを「身ごもる」と表現してもらうと、大変ありがたい。男は、身ごもるという崇高な体験を、一生することはできない。私の中に私と言えないものが私を生命基盤として成長していくとは、一体何たることか! 想像だにできない不可思議さだ。
空気が、モクセイの香りに染められて初めて、身ごもっていることに気づく。しかし、気づいて後にわかるのは、すでに常に空気を身ごもっていたということである。「私」ではない空気というものが、私の真ん中に入り込んで私に遍満する。それによって私というものを産出する。私が、空気を、吸うのでなく、私が空気に吸われるという転換が起こる。私は透けだして、私と空気は別のものではないと体験される。しかも、前者は後者に絶えず支えられ、ゆるされ、与えられているのだというのが、不可逆的な順序のはずである。

(日本海新聞の「境港小話」の原稿を使いまわししているが、このきんもくせいネタ、以前もブログで書いた覚えが・・・と思っていたけど、なんと2006-10−27というほど以前でした。)