権威は何のため

儀式を厳かたらしめるものは権威。逆に、権威は儀式によって威厳を得る。
神仏そのものの権威は儀礼を必要とせず、ダイレクトに個人につきささる。神と個人は直接する。直接経験がないものは、間に社会組織としての権威をはさんで宗教を信仰する。つまり権威主義
世俗の権威や空っぽの権威は、大きく厳かな形を必要とする。権威と儀礼は相伴なって存立する。儀礼は行為規範、行為は善悪が問われるステージ。形を示して、その形に統一する、それが作法。きまり。統一することで集団をまとめる。外枠を築く。何かを統一する尺度が、規範、正しさ、正統性、その正統性の根拠は権威あるいは、組織。行為ー善悪ー国家、あるいは行為ー道徳ー組織。
空っぽな権威ほど破壊すべきものと思ってきた。今でもそう思っている。
権威は空っぽでもかまわない。内容空虚であっても、外見がととのえばよい。、内容は表現されてしまうことはあるにしても、所詮内面や内容は他者から「見えない」し、外見や振る舞いは「見える」。にじみ出た内面も、外見化されたところで判断するしかなく、それは見る人の解釈にすぎないので、所詮内面等は捉えられず、あくまで見えた限りのそれぞれの「主観」(「客観」には届かない)しかないのだ。
で、中核が空っぽでも(あるいは根拠がなくても)権威があって儀礼体系が成りたちそれが日常の立ち居振る舞いを規定する。すると、儀礼や伝統という、個人より長いスパンのものに身をゆだねることになる。それは、個人の好きにしていたのでは出てこない。その時、個々の好きなようにすることと、儀礼に合わせるということとで、社会としてどちらがまともになるか、統一性をもちうるのか。かりに権威が空っぽでも、それによった世の中がちょっとでもまともになるなら、その空虚のささえるフィクションを受け容れるというのは社会秩序のための大人の智恵と言えるだろう。