力に依拠しない世界を

「力」とは別の仕方で語ることの必要を感じ初めてからもう10年以上たつが、そういう言葉世界を開くのさえはかばかしくない。たとえば、聞くことが大事だというのを幼稚園でも語り続けているが、そこでつい「聞く力を育みます」などと言ってしまう。いやだなあとどこかで思いながらも、である。だいたい、聞くというのは力なのか。否。むしろ無力である。無力において展開し転がり出す世界である。力に約して語ってしまうと、結局個人の能力に還元されてしまって関係性で物事を見る見方が絶たれる。
地域の小学校(境小学校)で、市内の先生方が集まる研究授業があり参加してきた。総合学習を地域密着型で実によくやっている。継続が積み上げになって、実質的な成果も上げている。アクティブラーニングの好例である。一年生から付箋を使ってKJ法などに親しむことで、方法や道具立てをともなって思考が鍛えられていく。付箋を使うことは、個人の思考の言語化であり、文字化することで固定されるがためにそれを元に発表もでき、議論も可能になる。話し言葉だけでは消えてしまうことが文字に落ちていることで、記録にも手がかりにもなり操作も可能になる。分かることは分けることであるから、分けるという作業がモノ化されて行われることで、脳内も整理され、分別的理解力が育まれる。実社会に役に立つ力のトレーニングになる、いい授業を学校挙げて進めていることがよく伝わる力のある公開授業だった。
上記のことを十分認めた上で、認めるからこそ問わずにいられないことが沸いてきた。研究授業の後の全体会で、鳴門教育大学の村川雅弘先生の「未来を築き地域を担う人材に求められる力とその育成」という講演の後に、質問した。
「求められる力」とか、境小の「よりよく学ぶ力」「かかわる力」「生かす力」とかしきりに「力」「力」というのですが(力ばっかでしんどくなってくるという個人的な心情は漏らさなかった)、無力の居場所はありますか。たとえば幼稚園での「協同的な遊び」で、絵の好きな子が絵を描く、そこに人が集まってきて切磋琢磨しながら作品が広がっていく。その時、絵が苦手な子も加わる。その子は絵を描かない。下手だからこそ、無力だからこそ、その子のしたことは他の子の筆の運びを褒めること。それによって、いい雰囲気が作られて作品が展開していく、ということがあります。あるいは、「めざす」と「すごす」というあり方、doingとbeingというあり方の対比でいえば、学校はあくまで何かをめざして力をつける場所であって、すごすとかbeingとかいうことは家庭が担うことだと截然と分けるということでしょうか。
こんな風な質問をした。村川先生はそれなりの応えをくださった。
ある小学校の先生の反応は、ある子がある活動の振り返りで、できなかったこと・否定的なこと(これを無力に該当させたのであろう)を山ほど書き出した。それを受け入れることができた、そういう気づきは無力ではないでしょ、というもの。このこと自体、言うべきことのあるおもしろい話だが、今注目するのは、この先生は結局、無力ではないということに収斂させたということ。無力などではなく、色んなことができていくし、いろんな力をつけていけるのだ。そういうことであろう。無力がネガティヴに受けとられ、無意識におそれられているということは聞き取れる。ぼくは、無力を積極的に見ようとしている。東洋的な発想の根本には、老荘思想でいえば「無用の用」ということがある。さらに「無の自覚的限定」というのが現実の世界をありのままに、もっとも根源的なところから、とらえたものだとぼくは思っている。
息を吐いてばっかりはいられないだろ。吐ききったら自ずと入ってくるだろ。そこ自覚しなくていいのかよ。時間のないところに割り込んで話した僕の質問を、境港の先生たちのいったい何人がきいてくれたかわからない。でも、不登校に悩んだりしてるんでしょ。ぼくの問いに応え得る人がいったい何人いるかわからない。そう言ってアジったところでこんなブログを読んでいる境港の先生なんていないだろうから、もうちょっとついでに言っておく。
問題を見いだし、解決するという式の学習が大事だという研修会で、それを聞いている先生方からの質問がそれほど活発ぢゃないということは、「課題発見」は生徒の上に課すことであって自分の上には課していないと言うことの表れではないのか。換言すればこの研究会のどこに問題があるかを見いだすことができていないということではないのか。僕はかねがね問題解決型という以前に、問題の所在を究明するセンスが大事だと思っているが、それは中教審の「アクティブラーニング」でいわれる「問題を発見し」ということとは別のことなのであろうか。
末の娘はかの学校に通っている。その辺のことをちょっと聞いてみるとこんな応えをくれた。よく、力って言うよ。見る、聞く、伝えるとかいって、見る力、聞く力、伝える力とか。協力する力とか。「協力する力」って「協力」でしょ、と。「学力」が高くない(ゴメン)娘にして、この突っ込み。お見事。