子どもの言葉;何とはなく抱く思い・でも根本的

みやざきひろかず作「おぼうさんとろくろくび」という紙芝居を妻が買って来て読んでくれた。それを聞いた双子の娘が、絵がみやざきさんぽくないと言う。ワニくんやレベルフォーがみやざきさんっぽいのだという。
ワニくんのおおきなあし (ニッサン絵本大賞作家集)

ワニくんのおおきなあし (ニッサン絵本大賞作家集)


みやざきさんといえば! と言うことで「ちきゅうになった少年」をぼくが読んだ。子どもたちにも、授業でも何度も何度も読んだこの本を、読んだ。久しぶりに声に出した。実にいい本だ。「なる」ということの本質を、何かに「なる」ということはその何か以上のものが開かれてくることだということを、描き切っている。

最後の方で、主人公の少年が「なる」ところを描いたクライマクスで、二人とも真顔で聞き入っていた。読む方もちょっと静かなトランス状態のようになる。読み終わると、嘆息とともに「すごい」、「お・・モ・・シロイ・・・」
直後に、床に就いた娘の話を聞く。
「地球って聞くと、何て言っていいか・・・・・地球って回ってるじゃん?そこで(私たちは)なんで止まってられるのかとか、地球の反対にいる人は落ちないのかとか。・・・・・何で 人間いるの? 何のために生まれた?ムダぢゃない?」
こんな根本の問いを、それが出てくるような思いを、この娘が抱いているなんて、焼き鳥を「かんざしのお肉」(2014−9ー12のブログ参照)と言うような娘が、抱いたことがあるなんて、吃驚だった。
驚きつつ、彼女の心情を想像しつつ、最後の問いへの答えをどうするか瞬時に考え、三呼吸おいて応えた。「ムダだよ」という否定面から応えるのは、望みを抱くべき中学生には、やめて、肯定面から応えた。
「世界が、こと(娘の名)を通して世界を見るため。世界がことの目を通して見てる。世界が人間において世界自身を知るんだ。そうやって世界が豊かになっていく。」