『宗教の授業』(大峯顯)について

1月11日のコメントで俳人大峯あきら氏のことが話題になっていましたが、その大峯顯氏の著書の評を「仏教タイムズ」という新聞に書いたことがあります。それに若干の加筆修正をしたものを、以下に上げておきます。
          宗教の授業
仏教という宝の蔵に、今、入っていけるのは何者だろうか。
おそらく仏教学者ではない。彼らは「仏教辞典」と「仏教学辞典」の区別に無頓着であるが故に(仏教学辞典なるものはほとんどお目にかかれない。仏教辞典を書いているのは仏教学者。仏教学者は仏教者とイコールではない)。
おそらく僧侶でもない。彼らは「真実だから仏教だ」と言わずに「仏教だから真実だ」と語る故に(前者において仏教という枠は開かれており、後者においては既成宗教の枠としての「仏教」が前提となり、枠は閉じたまま)。
そして両者とも「仏教とは〜」という主語で語ることしきりなので、「宗教とは何か」という問はもつ余地がないようである。「宗教とは何か」という問に対して、宗教学者が「客観的に」答えた定義などでは、知識にはなるが臓腑を抉らない。また、この問に対して、「宗教」の外にいる人にとっては、「宗教」内部の教義の言葉では答にならない。それなら「理屈ぢゃなくて体験」か。個人的体験談を聞いても他人の体験に過ぎず、自分の腹はふくれない。感情的に語られれば語られるほど、引いてしまうというものだ。体験にもとづきつつ、それを掘る思索力があってこそ、今の人に響く答になりうるだろう。
これまで『親鸞コスモロジー』『宗教と詩の源泉』『花月コスモロジー』(いづれ法蔵館)という名著をもつ大峯顯氏は、フィヒテを初めとする哲学研究者であり、僧侶でもあり、かつ毎日俳壇の選者で俳人協会賞を先年受賞したほどの俳人でもある。
このたび出版された『宗教の授業』で大峯氏が「空」とか「菩薩」とかの仏教用語を語るのは、「仏教」の教義を解説するためではない。現代の閉塞した世界を開くものとして語っているのである。
これまでの人類の人間観は、人間を人間以上の神や神々との関係から見るか、人間自身に内在的な能力(理性・技術的知性・労働力・社会的本能)から見るかのどちらかであった。両者とも聖と俗とをはじめから区別した上で、それらを結合しようとする考え方である。それに対して、菩薩とは、聖と俗が分かれる以前の地点を深く掘り下げ、そこを原点として人間や神仏を考える思想であると言う。この菩薩の境界は詩人の境界に重なる。詩人とは、神々と人間との中間に投げ出された者である。「〈菩薩〉も〈詩人〉も人間という概念の既成の輪郭を振動させ、われわれを新しく、人間とはいったい何者かという問いの前に連れ出すように思われる。」
ここで言われる「詩人」はハイデッガーの思索が導きとなっているのだが、それは単なる他人の思想の引用ではない。著者が俳人として自ら詩を生きていることこそが重要である。且つ、自らの語る宗教を生き哲学を生きている(このように言って不当ぢゃないということは、『花月のコスロジー』というエッセイ集を読んでいただけると合点がいくと思う)。著者がもつ俳人、哲学者、僧侶という三つの面が仲違いしないのは、それらがその源泉から生きられているからであろう。本書はもと放送大学のテキストであったことから、広義の宗教学の概論的な性格を持っているが、無味乾燥な「教科書的」記述に陥っていないのも、生きているものが放出する熱のためであろう。
 「私は答を持っていない。一緒に考えましょう」的なスタンスが受け容れられやすい時代思潮の中で、著者は断言する。世俗化という現代世界の混迷から脱出する途はわれわれが真の宗教というものに向かって覚醒する以外どこにもない、と。この断言において氏は宗教者であり、現代世界からの要請を聞くことにおいて哲学者であり、それを語る言葉の的確さとふくらみとにおいて詩人である。
自分が乗らない車を売るセールスマンの口上には、ぼくらはもう飽き飽きしている。立派な思想など、それを語るものから遊離した思想など、要らないのだ。立派であればあるほど白ける。緻密であればあるほど呆れる。自らが生きる底からあふれ出る言葉を語る者によって、仏教はその「宝の持ち腐れ」状態から脱することができるであろう。