親の希望などお構いなしなところに本当の希望がある

人間のために生まれた牛豚鶏は、いませんと言いましたが、その意味をもうちょっと説明しておきます。
いくら人間が食用として飼育している動物から生まれても、その動物の赤ん坊自身は人間に食われるために生まれたわけではない。「肉にするため」はその生き物の外から付けられた目的であって、その生き物の内にある目的ではないということです。それはもちろん、人間にも当てはまります。家業を継ぐため、家の存続のため、家の跡継ぎとして生まれてきた赤ん坊も、その期待はその子自身の中にあるのではない。
要するに、産み落とされるのはさまざまな条件を持った社会に、ですけれども、生まれ出ずる力はそれらの条件を超えている、あるいはそれらの条件と無関係である、ということです。だからどこまでも、希望の萌芽はつまれることがないのです。昨日あげた「生ましめんかな」に繋がったところで、とりあえず擱筆