学ばざる者、教うべからず。

学ばざる者、教うべからず。
仕事上親しくお世話になっている年配の先生の言葉です。
「先生」「教育者」という仕事に就く者にとっては、痛烈な言葉になるはずです。そして、絶えず肝に銘じておかねばならない事でありましょう。
とかく、「先生」は学ばない。すぐさま「教える」というスタンスに立ってしまうから。
「ゆとりの教育」などというと、教員が自らのあり方にゆとりがあるのか否かを自省する前に、ゆとりのない教育者がゆとりの教育を施すという図式にするりと陥る。その奇妙さに気づかないから、そんな人間がせいぜいできることは量的対処。時間を減らす。時間を多く与えたところでゆとりが生まれないってことは新幹線が通った昔にすでに証明されたことぢゃないか。時間を減らしたから、先生は汲々、そしてこんどは学力低下の揺り返し。アホか。
すぐ教えたがる。本当に大事なことは教えることなんてできない。そこに他人は指一本触れることのできない主体性存立の余地もある。過度に教えることは教えられるものの尊厳を奪いさえするのに、そういうことへのおそれがなく即ち謙虚さがなく、教えてしまう「先生」、教えこむ「先生」、教えることが大事だと思(い上が)っている「先生」。教育者はだから嫌われる。まあ、教えるということの意味次第ではありますが。
一生懸命勉強して「学んでいる」先生もいる。ただ、勉強してたくさんの知識を獲、実践をつんでも、同じ原理で成り立っているものをどれほど多く積み上げてみたところで、学ぶということの深部には届かない。まあ、ここまで来ると「先生」にかぎったことではないですね。
学ぶとか教えるとかいうのはどういうことか。人間のあり方においてどのような事態なのか、そこで何が生じているのか、しっかり一度吟味することは大切だと思われるこのごろです。