学ぶとは

同じ前提で成り立っていることを収集しても、ほんとうに学んだことにならない、と言いました。では、学ぶとは?
学ぶとは未知なるものに身を切り開かれること。
目新しいなにかを、旧態依然とした自分がつけ加えるのではなくて、新しいものに自分が変えられ形成される。そういう自己革新のことをいう。
自己批判や自己否定(自己が否定される。自己を否定する)のないところに学びはない。だから、なまやさしいものではない。痛みを伴う。だから、学ぶとは、知性の作業ではなく、経験なのだ。
この、大きく受動的で積極的ないとなみは、聞くということと重なる。『花はどこに咲いているか』では次のように語られている。

「聞くということは、身を開くということだ。自分ではないものを取りこんで、自分を再生させることだ。発想の原点を「自分」に置かず、自分を語り出す(この時点で既に身構えてる)以前に、受け容れる。そこから、より大きく自在な自分が形成される。」(p.61)
「見ることが距離を不可欠としたのに対して、聞くことにおいて経験されるものは、距離を越え、ダイレクトに浸透して来て、体の中から揺さぶり動かす。そして、自分の真ん中に入り込んだものが自分を開かせ、それが新しい自分に作り変えて行くということがある。あたかも、自分の外から舞い込んできたような種が、自分の中に根を下ろして、自分を吸って成長し、気づいたら、自分は消化し尽くされてなくなり、その成長した植物が自分になっていた、というようなことが。」(p.60)

そうして「聞くもの」としての私と「話すもの」としての私は全く違う存在だ、と述べられている。聞くとは主体の転換のことだ。
聞かずに、つまり学ばずに、教える。そういうことが垣間見える例として、少年による殺人事件などがあると、すぐ語られる「いのちの尊さを教えなければならない」というような言葉。なんて傲慢な! 憤慨の勢いで出てくる言葉を収めて、このつづきはまた。