本当に教えるものは誰かー「命の尊さ」って?

猟奇的な少年事件などがあると、よく、校長先生が全校集会を開いて「尊い命を大切に」とかいったり、教育者からもマスコミからも「命の尊さを教えなければいけない」などと教育に要求があがったりする。
「いのちの尊さ」を「教える」だって? 誰が? 私がいのちについて教えたら、いのちは私より小さい。そんないのちは尊いか。尊いとか尊厳とかいう形容詞をつける以前に、命の実感があるか。その実感をもとに「尊い」と言ってるか。もしそうでなければ「命の尊厳」と言ったその口から底冷えを感じる誠実さがあるか。枕詞のように自明化された「尊い命」という言葉が発せられるところには「命」も「尊さ」も体がない。
くりかえすが、尊い命と軽口たたく以前に、そして形容詞ではなく、命そのものの経験が問題なのだ。経験は沈黙をもたらす。いのちについて次から次へとしゃべりまくったり、解釈したり、理解したり、雄弁になったり、そんなところには命の経験があるかどうか疑ってよろしい。「いのちの意味」などということが、いのちより派生した知性が自らのもとを忘失することによって発生する観念の遊戯に陥らないためには、または意味付けする思考の方からするいのちの過剰な概念化と止むことのない説明に陥らないためには、経験が不可欠だ。経験によって、意味づけや解釈の出所が変わる。思考から命へという方向が転換する。そこで、命は思考から把握されるのでなく、命は命から考えられる。
仰げば尊しわが師の恩」だって、仰ぐという行為に降り立つ「尊し」なのであって、いのちだって、求め、打たれるという行為(つまり経験)があって初めて尊しと実感される。
「命が尊い」などという経験があるか。それは説明にすぎない。そんなまどろっこしいことは経験の現場にはないであろう。形容詞がはがされ説明が拒否される「いのち!」という裸の事実に打たれる。その現場に尊さが満ちる。現場ではそういうようになっているだろう。上で、経験とくり返し言って来たことは、事実と言い換えてよい。事実ほど尊重すべきものはない。
いのちを教える? 教師が? そう思っている限り、傲慢からぬけられない。いのちを教えることはいのちにしかできない。人間にはできない。われわれのできることは、いのちに聞くことのみである。自らが、いのちに開かれ、その上で、いのちの事実を示そうと試みるくらいのことである。釈迦だって説法の前には禅定したそうぢゃないか。
だから、「いのちを大切に」という一見もっともなスローガンにも注意が必要だ。そのスローガンが喋々されるほどいのちは大切にされない。あり得ること。いのちの事実に直面して、私はいのちの主人ではあり得ない。私が、人間が、主体となっていのちを大切にするなんていう発想からでてくる言葉は傲慢にすぎない。「命の尊厳」どころか「自我の尊大」である。
そして、そもそも命が尊いかどうかも疑わしい。この疑いを宗教者ですら持てなくなっているようだ。いのちとは一般におのれの生をさすようである。ってことは自分が生きてることが尊いと言っているのである。本当か!? あるいはいつまでも健康で生きていたいということの別表現かもしれない。或る宗派で「いのちの教育」を推進しようとしている人の話を聞いたことがある。2時間ほどの話でしきりに「いのちの尊厳」と言っていた。そこで最後に質問した。「なぜいのちは尊いと言えるのですか」と。答えられない。ちょっとしてから「ひとつしかないから。かけがえがないから。」とのこと。「ひとつしかない」と「尊い」は別のことである。「かけがえがない」なんていいこと言ってるみたいだけど、死にたくないっていってるだけである。これは宗教の次元に入っていない俗人のおしゃべりにすぎない。なぜいのちは尊いか。宗教者なら間髪入れず答えねばならない。道元禅師ならこういうであろう、「この生死は仏の御いのちなり」と。仏ということが空白になっている人が、現代では大半であろう。しかし、いのちが尊いと言いたいのなら、仏と同質のリアリティーでもってその穴を埋めなければならない。
いまコンピウタの画面の前で、使う身体はマウスをクリックする指くらいで目と脳みその一部のみしか使っていない、あなたが、こんな文字情報としていのちについて読むことにも注意がいる。今、あなた自身が、いのちの尖端に触れるならば、あなたにその接触の道が確保されているなら、上記のことを読む意味も出てくるでありましょう。