産出

年末年始にかけて生まれるということの妙を痛感しつつ言語化し、あるいは言語化されたものを引いたりしてきました。2月2日に生まれるということの事態に言及して親子のことを一瞥し、さらにイイホシユミコの磁器をみて家族というものの印象を若干述べました。親子のこと、産む産まないということなどのコメントもいただきました。そこで、かつて親子のことなどについて書いた拙稿を上げておきます。
これは「生命の思索―現代世界の根本問題と宗教性の究明」(『生命の本質と条件』所収2001年)の第2節です。(ごく一部の訂正を加えました)ご参看ください。

2 子どもは「つくる」のか、「うまれる」のか。
◆生命と技術
 「子供をつくる」という言い方が一般化している。そこには「作る」ことが支配している現代世界の反響を聞き取れるであろう。「作る」ということの主は人間である。人間の作り物に囲まれている社会の住人は、自動的に人間中心主義に傾く。それはつまるところ自己中心主義である。作るという発想が、自然や生物に切り込んで行くと生命操作の技術に結晶し、親子関係へ入っていくと親のエゴの一助になる。
赤ん坊はコウノトリが運んでくるのである。仏様からの預かりものである。そんなの「非科学的だ」と退けるだろうか。昔の人の考えだと笑うだろうか。今でもそうである。
赤ん坊を「作る」ことが本当にできるなら、不妊に悩む夫婦はいないであろう。その悩みは不妊治療で技術的に克服できる日がくるかもしれない。それでも、わが子を失った親は同じ子を生むことができない。親が子を作るのであればできるはずである。クローン技術によって「同じ」子が作れるのではないか。そう思うのは、人間を物質に還元して考えるからで、そこでは時間が度外視されている。その子のその子たるゆえんは肉体の構成要素ではない。
子どものはじまりを受精卵と見る。しかし受精卵というものが存在するのではない。受精卵は母胎に於いて存立を得ている。受精卵をそれがあるはずの場所から切り離して一個の独立した受精卵として見る見方が、技術と結びついて、「受精卵」という現実を作り出した。物を場所から引き抜いて場違いを犯す、そこに「還元」がある。生きた物が息づいている場所(世界)が消えて単なるモノになる。モノになれば早晩、売り買いの対象になる。〈場所〉といったことは、そのものが存在することに与かった、すべての縁のこと。母胎のみならず、夫婦関係、生命が宿ったということ、等々である。それらの多様な関係を切り捨てるのが還元ということであり、切り捨てられないのが現実の受精卵である。つまり一個の受精卵といっても世界に於いてある受精卵、世界の受精卵である。その証拠は、体外受精などの技術にまつわって必ず「倫理」(人間関係)問題が生じてくるというところにみることができる。
生命体に対する人間の介入の度合いは増していくに違いない。それでも最後のところ(命は預かりもの)は残るであろう。我々は細胞ひとつだって生んではいない。どこまでも生命を「作った」のではない。生命操作さえ、生命が自身を生む活動が基礎にあって、可能になる。
◆親と子の間にある生命
「子どもは親から生まれない」(西田幾多郎)。この言葉は、「生かされて生きる」を口癖にしているような人や僧侶なら、うなづけるはずである。親が生んだのではない。親は、生命の自己産出活動に参加しただけである。生命自身が生む。生むという生命のはたらきのなかで、親から子へ、個体から個体へ、である。生命自身がたえず脱皮を続けながら現在を維持している。我々はその現在を生きている。現在の尖端から遅れをとって過去化すれば死である。個人においても生命の今が脱皮をくりかえし死して蘇る。生命は個体を越えている。親から子へ生命が貫いて生誕の出来事がくりひろげられることもまた、生命が個体を越えていることの証しである。
親子の間にはたらく生命は、私と私の間にもはたらき、私という存在を維持しているものでもある。私とは、私ならざるものが私する、生命の生殺与奪の動きの焦点。存在が集中して私となす力は生命から来る。
人間は生命を生むことはできない。私(親)も生むことはできない。どこまでも授かりものである。授かるといっても、「自分」がまず居て、命なるものを頂くとかもらうとかいうことではない。自分さへそこから来るもとのところなのだから。預かるといっても、自分と別の何かを借り物のようにあづかるのでもない。生命と私はそんなよそよそしい間柄ではない。私は生まれた。即ち、自分が生んだのではない。私ならざるものから私、そこに生命の構造がはたらいている。
◆親の愛の力
親も子も同じ生命の大海において生をうけたというのが事実であるのに、親は、子供と無関係に初めから親であったかのように思いがちである。つまり親が子を生んだと思う。しかし子供が親を親にした。子を預かったことで、親になる道を歩みはじめることが許されたのである。 預かりものであったはずの子を「自分の」子と思う。するとすっかり「自分の」というところ(自分中心、所有、エゴ)にあぐらをかく。「自分の」だから、「親のいうことは聞くべきだ」になる。親が「主」になり、子は「従」になる。
「親の心子知らず」。当然である。子は親になった経験が無いのだから。この言葉を言うのはむろん親である。それなら子はこう言うであろう、「子の心親知らず」。前者は成句である。後者は成句ではない。けれど、親は分が悪い。なぜなら親は子ども時代を経験済みである。それなのに、子であったことを忘れることと引きかえに親になったかのように、子の立場にはなかなか立とうとしないからである。いづれにしろ、親子を問わず、ひとの心を知ろうと身を削ることが少ない割に自分のことは分かってほしいという心根がひそむ。
作る(人間の傲慢)が生む(人間の力の否定)を隠すように、親は、子どものことを知らないという自己否定を忘れる。おのれの無知を認めなければ、他者に耳を傾けることができなくなってゆく。
人間の親は知らない。仏を親様などというが、「かねてしろしめして」いるような親である。子がどんなところに堕ちても無限に先回りして待っているような親。そこまで至って、はじめて親のエゴを脱して、子のことを知っていることになるのだろう。親であれ子であれエゴはエゴである。しかも身分や地位が上にある方、力のある方がエゴをまかり通す分、エゴは強くなる。
「子のために」と言うところにひそむエゴに気づかないと、子への重圧になる。その重しは、「親心」「親の愛情」という装いをしている。親子にかぎらず、「〜のため」と言っているときは実は自分のためであることが多い。本当にその人のためになることがあるとしたら、それは私心なき無償の愛で動いた時であろう。そんな時は「あなたのため」などという意識すらない。
親子というだけで初めから信頼関係があるかのような考えかたは、今や通用しないだろう。むしろ親子、兄弟という血縁関係こそ、最もドロドロした関係になり得る。自分のまわりの親戚関係などを省みれば、一つや二つ思い当たる節があるだろう。また家庭であるがゆえに、それが逃れようのない密室になることは、幼児虐待の事件などから明らかである。愛するわが子の首をしめる親もあり、親の愛の重圧を金属バットに昇華させる子もある。
親子の危うさばかりを強調しているわけではない。それは経典にさえ、頻婆娑羅王、韋堤希、阿闍世の物語として、語られていることである。また「親鸞は父母の孝養のためとて、一遍にても念仏まうしたること未だ候はず」という言葉は、念仏という宗教的真理は親子の情を越えた次元に成り立つことを示している。親子関係といえども、宗教的な裏づけでもなければ、エゴ的な関係が解かれがたいということである。子を生んだ生命は親を生んだ生命であるという、生命における平等。それなしには力関係の束縛からは脱するのは困難である。
エゴを頼りにしたり温存したりしているかぎり、つまり自分が単に自分であるかぎり、仏とは出会えない。生命を手放しで受容できない。エゴはあくまで否定されるべきものである。これは宗教的に生きる時の原則である。タテマエではない。この原則が生きるところではじめて自らが「罪悪深重」であることも切実に感じられて来る。タテマエでなく自覚になる。仏教は仏に成るための教えだという原則をとびこえて、はじめから「悪人」を原則とすることはできない。
我々の作ってきた社会は、原則をタテマエと受け止める。それを「きれいごと」とみなして白ける。こうして原則が無力化されると、道理は通らずデタラメが横行する。タテマエの対語はホンネである。ということは、ホンネとは原則をないがしろにしたところに成り立つ。真面目、真摯、誠実、これらはタテマエのほうに配当される。平板な「現実」や深み高みのない「情」がホンネとみなされ「結局人間とは弱いものだ」ということに行き着くともはやテコでも動かない世の中悟りとなる。原則や原理に則って道理は通る。理は、人に考えることを求める。理屈をないがしろにすると、屁理屈に支配される。言葉は軽んじられ、行動との結びつきを失い、現実に根づかなくなる。言っていることとやっていることが違っても構わなり、そうなれば、責任の宿る場がなくなる。