今どき科学信仰でもあるまい

2-15にあげた、市販されているブックレットにおける拙稿「生命の思索―現代世界の根本問題と宗教生の究明」には割愛された2つの節と最後の小見出し一つ(生死即涅槃とは?)があります。冒頭部に予定されていた2節を以下あげておきます。というのも、昨日上げた箇所と連関するからという理由もさることながら、以前「科学」にまつわるコメントがあったので、それに応える意味もあって、です。21世紀にもなって科学信仰でもあるまいと思う半面、現代人は知らぬうちに科学ふうのものの見方を基準決定的な位置に埋めこんでしまっている、しかも相当根強く、と思われるからです。ついでに、これを書いた頃は、ヒトゲノム解読がほぼ終わるめどが立った頃でした。



1 「生命の神秘」を明らかにするのは科学である?
◆科学は「客観的」だから「正しい」?
生命というと、今日では科学がその微細な構造を矢継ぎ早に解明している。日々報道されるように、分子生物学が人間の遺伝情報をしらみつぶしに読み解いている。そこで明らかにされるのは「客観的」事実である。「客観的」ということは一般に、だれもが認める唯一の、本当の、というニュアンスで語られる。それに対して哲学や宗教などは、人それぞれの「主観的」な考え方にすぎないとみなされる。始めに神が天地を創造されたとか、神が「光あれ」と言われると光ができたとかいうことは、人間の作り話だ、空想だ、とみなされる。つまり、こう考えられている。科学が言ってることは「正しい」。科学はありのままの事実を解明する、と。本当だろうか。
「客観的」とは、実は一つの制限である。主観を含まない。したがって、客観的事実とは一面的であって全面的事実ではない。主観、個々人の思いや気持ちなどは意図的に排除し、その上でもっぱら対象について客観的に研究するというのが科学の前提である。そこでは目に見える「物」が対象である。生命をデオキシリボ核酸という物質として見る。人間を肉体という物質として見る。また、自然を機械として見る。つまり科学とは自然や生命を見る見方の一つであり、唯一の見方ではない。
科学は哲学、経済学等々とならぶ学問の一つである。学問にはそれぞれ方法や対象があり、上述したような前提がある。ところが科学は、一つの学問として前提をもった知性の営みであることを、うっかりすると忘れてしまうほどに、過剰な意味や期待を担ってしまっている。自然科学の対象は自然であるけれど、科学は自然ではない。人知である。人の知性が為すこと、つまり人為である以上、その眼差しは不自然であったり反自然であったりする。この不自然という自覚を鋭くしないと、「自然」のことをいくら知っても“対象的に”認識されるばかりで、自己の“自然な”あり方との結びつきが見えてこない。
真の自然が失われたので、なにもかもが人間にとっては自然になった。ちょうど、真の幸福が失われたので、なにもかもが人間の真の幸福になったように。(パスカル『パンセ』)
 知性として、知・情・意という意識の側面のうち、感情や意志を切り捨てるので、そこで明らかにされるのは知に偏重した世界となる。科学は、知という断面で切った自然解釈である。 人間の営みとして、その時々の歴史や社会の状況も反映される(例えば、粒子加速器。後述)。科学の明かす真理は時代を越えて通ずるものだ、と簡単には言えない。
科学は一つの見方と言ったが、たとえて言えばメガネのようなものである。そのメガネをかけると自然が機械に見えてくる。ところがメガネを通して世界を見るのであってメガネを見るのではないから、メガネの特性(前提)はよく忘れられる。そうすると、「機械に見える」と言うべきところを「自然は機械である」と言いだす。ここに転倒が起こる。これを見逃してはならない。この転倒によって「見たまま」が「ありのまま」の位置を奪い、ありのままの自然は隠される。この事態は科学にかぎったことではなく、日常生活でもしょっちゅう起こっている。自分にそう「見えた」だけで「あいつはそういう人間だ」と思い込む。親鸞はこうであると言いながらそれは自分の視角を語っているにすぎない。「見たまま」中心は自分中心である。“見える”と“ある”との違いを肝に銘じたら、世の中の実に多くのゴタゴタは解消するだろう。そういかないのは自己中心主義の強さの証しかもしれない。
科学が明らかにする自然はありのままの自然ではなく、人間的な自然である。「生命」が誕生してから38億年であるとか宇宙のひろがりは150億光年だとかいうことを明らかにしたのは牛でもなければカマキリでもなく、人である。その意味ではどこまでも人間中心主義がまとわりついている。客観的研究の背後にひそむ人間中心主義、地球中心主義、太陽系中心主義、これらは人間の根底に巣食う自己中心主義にもとづくものである。
自然の究極単位と目される素粒子のうちのクォークという物質は、未だ発見されていない。それは自然界には存在しないので、粒子加速器という巨大な装置で「作る」。この装置は国家予算をかけてテクノロジーの粋を集めて作られた、現代社会の産物である。ところで、自然の究極単位の研究が、自然界にはないものを作るということを奇妙に感じないだろうか。それは、今の自然界には存在しないが、かつて存在したものであると解釈されるのである。その解釈はある理論にもとづく。解釈といい理論といい、人間の営みにほかならない。したがってその物質の存在は、見ようとする眼にのみ映る(こういうことを普通「主観的」と言わないだろうか)。
科学が言ってることはデタラメだとか間違っているとか言っているのではない。前提や限界があることをきちんと念頭に置こうと言っているのである。必ず前提があるのだから無制約的に正しいのではない。前提を認める限りにおいては「正しい」が、前提が通用しなかったり、疑わしかったりすれば「正しい」とは言えない。
「指は五本である。正しいか間違っているか」と問われたらどうであろうか。どちらとも言えないだろう。むしろ前提が問題である。「片手の指について」という前提があれば「正しい」であろうが、「手足の指全部について」であれば、間違っている。同じことである。
科学がもとづいている前提を忘れると、その領分があいまいになり、すると野放図にひろがって、領空侵犯する。例えば日常会話で、自分があれをやったのはDNAの命令だ、などという。必要性も妥当性もなく、DNAもどきの解釈をする。顕微鏡のような視力をもつ人がいないかぎり、DNAなど日常生活で経験されない。実感になるはずもないことを、生命という実感を要求する事柄を語る基礎にする。そこでは「生命」についての知識が増えても、生命的な実感(生きてる!)は薄らいでいく。科学が悪いのではない。悪いのは、科学に対する態度である。
その態度とは、一つには反科学。「科学の進歩」を悪者に仕立てあげて安心する。そういう人は懐古趣味に陥る。そんな情緒は現実に力をもたない。今日、科学をいたずらに退ければ、無知蒙昧や狂信に堕ちる。時に、エセ科学に姿を変える。 その反対は、科学によってすべてがわかるようになるという科学信仰。科学者のなかにもこの信仰をもっている人がいるようだが、科学主義は科学的ではない。
◆テクノロジーの威力
「生物の体を機械として見る」から「生物の体は機械である」への本末転倒。これは、自然や生命を物質や機械に「還元」する見方であるが、この「還元」が明確に方法として行われているうちは、弁えがある。弁えを失えば、すぐ転倒が固定され、既成事実化される。それが今日は技術によって更に強力に行われている。技術によって、専門家だけに通用する知識であった科学が、社会化し日常化する。技術によって体は機械として扱われることで、体が機械化され、機械の現実が作られ、既成事実にされてゆく。テクノロジーは、科学のあるべき場(領域)を越境するどころか、人間のあるべきありかをも力づくで破ってゆく勢いがある。
あるテレビ番組を見て、戦慄した。背中いっぱいに人間の耳が生えたようなネズミが大写しになる。人間の耳の細胞をネズミの背中で培養し、耳をつくりあげたとのこと。バイオ企業の社長は得意げに語る、「故障した車を修理に出して古くなった部品を交換するように、人間の体の組織も新品と交換できるようになるのです。」
この人の見方は機械論的見方の典型であろう。生物を機械として見ることは可能である。しかし、もはや「見る」にとどまらず、生物を機械として作りかえる。ものの見方の一つの可能性であったはずのものが唯一の現実とみなされれば(これが転倒)、作り替えることに問題は感じられないであろう。しかし、「見る」と「作る」とでは全く別の話、異次元である。生物は人間の臓器や組織を作る工場とみなされ、みなされるだけでなく、そのように作りかえられてゆく。そんなふうにネズミをいじる技術はたしかに問題である。技術的に問題なく「できる」としても、問題の所在は変形されたネズミにあるのではなく、人間にある。問題の所在を見誤ると、問題は増殖する。