話す・相手そして文体

一言いうと、百言返ってくる人がいます。そういう人には話をする気がなくなります、ね? この何回か、ちょっとそんな内容になっていて、一人でどばどばしゃべるわけだから、少なくとも対話的ではない。教壇に立つ人は、50分、90分、話す人になるので、言葉が多いということが暴力的であることに、意識を眠らせてはいけないと思っています。先日、うちの園の園長が誕生会で話してました、聞かないというのも暴力だ、と。
膨大な量を話すとき、一体誰に話をしているのか。今書いていることは、誰に話をしているのか。相手がいないと、それは独白でしょう。独り言は、なぜか膨大になる。授業で独り言を言っていてはいけない。でも、誰に語っているのか。もちろん受講者にであるが、たとえば「みなさん」と言って語る語りは、成り立つのか。どういう語りなのか。
関係して、文体の問題。敬体(です、ます)と常体(である、だ)とは必ずしも互換できるものではない。それに気づいたのが、ここ何回か話題にしたブックレットの文章です。はじめ常体で書いたのですが、ブックレットとして他の人との統一を図るため、敬体に訂正しました。できはしたのですが、案外苦労もし、できあがったものは、何かが違う。たとえば文の勢い。文面上の入れ替えで、何か落ちるものがある。そこに、何かがある。この問題は清算も研究もしてないので、残ったままであることは、ぼくの書くものが敬体と常体が混合していることにあらわれています。言葉には相手がある、そこに関係するんだろうな。