網と矢:声が刺さるような語りと聞く体勢

「みなさん」と言って語る語りは、成り立つのか。どういう語りなのか。こういう問いを2−18のブログにあげていましたが、2−27に言ったように声が網のような性格だとしたら、そもそも「みんな」に話すということが生じやすい。そうすると、授業のようなコミュニケーションの形態も「アリ」ということになります。
けれども、その反面、みんなに語っているような話で、聞く側が陥りやすい弊は、声が上方を通過するかのようにして自分に刺さらないということ。ひとごとになる。それは、ぼくが話す内容からして、致命的だ。「叩けよ、さらば開かれん」ということが真実であるような次元の話ばかりするからである(この語句については拙著『花はどこに咲いているか』p.112以下参照)。一人一人、それぞれの私に関係することだからそのつもりで聞いてもらうには隈無く目線を配ればいいかもしれないが、実際上は受講者の数が多くなるほど困難は増す。それで、話の内容に注意を盛り込む。それはしばしばやっている。自分に語りかけられていると思って聞いてください。客席にいて、舞台を眺める、そういう位置では見えないものがある。あなた方は客席にいるんぢゃない、舞台に上がってるんだ。その位置に立って、初めて見えてくるもの・感じられてくるものがある、等々。
聞くことが大事だという話を、ちゃんと受けとめる、とはどういうことかというと、聞くことに〈ついて〉、一般論として理解し認識するのではなく、聞くことを体得することである。聞くことが大事だという話が聞くその現場を満たしていく。聞くことの現場・現在があきらかになる、それは聞くことの認識ではなく、体験である。体験という知は覚知である。