ぼくが葬式を嫌いなわけ

人は空白にたえられない生き物なのだろう。訳のわからないもの、つまりそれまでの自分の経験や認識の範囲になかったもの、そういうものに出くわすと、色んな事を言う。あれこれと持ち合わせの思考をあてがってみて、分かった気になろうとする。分かれば、自分の範囲内、そして安心。自分の古道具をちょっと磨けば新しくなるとでもいうように。
死というのは分からないものの中で最たるもの。死の空白(死という空白、生者においてもよおされる空白、死が生者をまきこむ空白)が、分かりきったことだらけの日常をうがつ時にも、ひとは上記の習性を発揮する。葬式に行くと、空いた穴を直ちにふさがんとする、死んだ人についての勝手な解釈がとびかう。
静かにしてくれ。人が死んだ時くらい、黙れないのか。
ちゃんと空白に向き合った人は、言葉や思考がその空白に吸い込まれてしまう経験をするはずである。
しばらくして(二、三日かもしれないし、ひと月、一年かもしれない)、その経験は言葉や思考を要求してくる。その時こそ、よくよく考え、言葉をめぐらすべきであると私は思う。
普段の生活で、死のことなど口にせず、考えもせず、死が話題に上るときは笑ってごまかす。それでいて、死が近くに来るとべらべらしゃべり出す。さかさまだ。古道具を自分の周りに並べ立てバリアをはりながら、そのひとの内側にある観念コンクリートで穴を埋める作業を、臆面もなく、御開陳。空振りだらけだ。言ってることときたら、サクラの花をそれほど見もせずに、数十年生きているというだけで、サクラを知っているというレベルで、死のことを知った気になっている。分かったつもりになれば考えない。考えたこともないことを、語るわけだから、大したものが出てくるわけもない。
だから、黙ってくれないか。