おむすびの魅力

子どもはおむすびが好きだ。時折、今日はおむすびにして、と言い出す。幼稚園の給食で、主食を全然食べない「おかず食い」の子がいるし、逆の半分だけが空っぽになっている子もいる。ご飯が進まない子に、先生方が魔法をかける。魔法の粉は、効果てきめんである。その粉は、世間ではふりかけと呼ばれている。もうひとつよくきく魔法は、このまま残りづけるであろうご飯を丸い形に造形すること。それだけで不思議にも、すっと食べてしまう。
子どもだけぢゃない。茶碗に入っていたご飯をおむすびにする、そこでお米も炊き加減も変わったわけではない。何が変わったというのか。あの、「むすぶ」という行為に何かがもたらされるのだろう。
嵐山光三郎だったか、「おにぎり」という名称は江戸前のにぎり寿司の影響でそう呼ぶようになったもので、あれはインスタント食品であって、おむすびはそうぢゃない。おむすびぢゃなきゃいかんというようなことを言ってたように思う。
むすぶという日本語は意味深長であり、結ぶことにまつわる文化があちこちに残っている。結ぶとき、何かが結ばれ何かが生じる。むすぶは語源的にムス・ブであり、ムスは蒸す・産す・生すの字があてられることからもわかるように、生成の意、何かが生まれ出て形をなすの意である。そこに日本語が蔵する日本的な世界直観と経験があり、それはおそくとも、古事記の頃まではさかのぼれる。
   「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)。次に神産巣日神(カミムスヒノカミ)。」
つまりカミの名にむすびがでて来るということは、むすぶといういとなみに神性を見たからに違いない。
いうならば、むすんだ人の気がこもるのだろう。だから、手が汚れないからラップで、というのはほんとは邪道である。菌の流入をふせぐという目的のため、大事な何かの流入をもさまたげてしまう。昔話で、お天道様が高くなったころ、明け方からしつづけた野良仕事の手を休めて、切り株に腰掛けたおぢいさんがひろげるのは、おむすび。おばあさんの気が、気持ちや意気や元気が込められているがゆえに、午後からの仕事の活力となったのであろう。