「どの花見てもきれいだな」!

ちゅうりっぷの花を何十年も見ているし、「咲いた咲いた」のちゅうりっぷの歌を知って何十年にもなる。色とりどりのちゅうりっぷを眺めながら、かの歌を口ずさんで、今年初めて嘆息した。「赤白黄色、どの花見てもきれいだな」おお!
感動したので、幼稚園児にも大学生にも専門学校生にもこの話をした。聞き手の温度差があっておもしろい。
赤は赤できれい。白は白できれい。これは分け隔てがないということだ。それは平等と言ってもいい。間違えてはいけない。「みんな」きれいなんぢゃない。赤だろうが白だろうが一緒くたというのは、味噌も糞も一緒の悪平等だ。赤も白も生きている平等。違いを殺さない。赤が赤であることの重さは白が白であることの重さであり、その重さは赤が白でないことに裏打ちされているはずだ。
白は白できれい。赤は赤できれい。ちかちゃんはちかちゃんできれい。あさみちゃんはあさみちゃんできれい。たつや君はたつや君できれい。つぼみはつぼみできれい。枯れたら枯れたできれい。ろくでなしはろくでなしで美人は美人でブスはブスで、きれい。そういう射程の“きれい”
こんな眼で暮らせたら、至る所お花畑だ。この眼、それはブッダの眼だ。区別が差別にならない。
人間の本質は分別にあるということは、『花はどこに咲いているか』第1篇を読んでいただくことにして、ぼくら凡人は区別した時点ですでに差別に半歩踏み入っている。違いに価値付けするからであり、それは自分が中心である限り他の一切は周辺であるという秩序に即した価値付けである。違いなんて、そう簡単に認められない。あなたは私ぢゃない。私を捨てられない限り、あなたは私ではないのであり、これが争いのたねになる。それほどまでに、とにかく私というものは根っから自分の思うとおりにしたいのである。
金子みすずの有名な「みんなちがって、みんないい」は、すでに誰の口をも通過したことのある童謡に先取りされていたことを知って、童謡の底力をおもう。「みんなちがってみんないい」を感傷的に、情緒的に感動するのはたやすいことである。この詩句を生きようと思ったら、生やさしいものではない。
浄土教に親しんでいる人はきっと『阿弥陀経』の「青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。」を想起するのであろう。
だいたい、きれいという肯定ほどいいものはないんぢゃなかろうか。よい、正しい、かっこいい、色々あるけど、きれい、美しい、この肯定ほど・・・あ、季節はずれのあられが屋根を叩きだした。ちゅうりっぷたちはどうしてるだろう。