天上天下唯我独尊

先日、園で一と月遅れの花祭りがあり、園児の前で話をしました。 園児と共に、身は右手は天を左手は地を指すという形をとって、口には「天上天下唯我独尊」と言いました。身口意の三業を「天上天下唯我独尊」で統一するには、意識にもそれを満たさねばなりませんが、言葉の意味の説明はあえてしませんでした。お釈迦様はそう言って産まれたそうです。みんなは産まれるとき何と言って産まれたきた?おぎゃー。それぢゃあ、ということでおぎゃーと産まれてくるときの反復もしました。ごろりと寝転がり、母親のお腹の中をイメージしてもらって、産道を通って出てるぞ出るぞ、出た、オギャー!みな寝転がってオギャーオギャーの大合唱。
すでに産まれてしまって久しいぼくらは、再生する必要がある。何らかの形で産まれ直しができるといい。本当は絶えず生まれ変わっているのだからその事実に意識を時折合わせてやったほうがいい。死と再生が宗教の核心だ。あ、拙著の第一篇第二章は「死して甦る」ってタイトルでした。
天上天下唯我独尊」は色んな解釈があります。だから子どもの意識に或る解釈を説明することは、なんか憚られた。でも一つの解釈を説明ではなく、やってもらったわけです。天上天下唯我独尊、それはオギャーのことだ。産声を大人の言葉で言うと天上天下唯我独尊なのだ。この解釈を僕は本当のことを射抜いていると思って尊重しています。産まれるというのことは不思議中の不思議。さらに、そのオギャーは今どこにある!と問いが続くところが観念のお遊戯に陥らないために重要です。
或る冊子ではこんな解釈。かの言葉はお釈迦様だけが尊いというのではなく、全てのわたしといういのちの尊厳をうたった宣言であると。ナンバーワンではなくオンリーワンなんだと。オンリーワンの花を咲かせることを仏というのであり、オンリーワンの私の花がいっぱいに咲くのが仏の国なんだと。どうですか、このお坊さんお話。わかりやすいですねえ。いのちの尊厳、個性の尊重。分かりやすいものには注意しましょう。
いったい個性の尊重などと学校などがさんざん言いながら個性が尊重されたためしがあろうか。いや学校だけのことではない。そもそも、個性の尊重と言うことが個性を尊重することになるだろうか。本当に個性を尊重したいなら、もっと別のことを言わなければならないのではないか。「いのち」を大切にしたいなら、「いのち」より大切なものに出会ってはじめて「いのち」もまっとうされる、というように。