天上天下唯我独尊と「オンリーワン」

音楽は偉大だから、それに「世界に一つだけの花」はいい歌だから支持者が多くて、歌詞にイチャモン付けると評判がよろしくない。「ナンバーワンにならなくていい」と言いつつ「オンリーワン」は劣等感を潜めている。だからややもすると、競争を廃する。運動会でかけっこをして「みんな一等賞」なんてやったりする。オンリーワンが「みんなちがってみんないい」を意味するなら、ビリはビリでいい、一等は一等でいい、4等は4等でいい、そうなるはずである。
ふだん、人と違ったことを好まず、「変わってる」はネガティヴな形容詞であり、「長いものに巻かれ」ているような生き方をしているのにねえ。もともと特別といっても、特別だから尊いわけでもない。かけがえのなさは人との比較から出るのでもなく、人とは違うと言って排他的に籠もるところからも出てくるのでもない。それは人間関係つまり人間世界という水平方向に保証されるのでなく、垂直方向に保証される。
それなのに、世俗的な発想におもねる僧侶は、いかがなものだろうか。ほかにも「ほとけさまのおしえ」と称して、「つづいてる いのちの不思議に ありがとう」などと書いてあるのをみると、こりゃあ、あんまりものを考えずに軽口叩いてるか、言葉のセンスがないかだろーな。「いのち」も「不思議」も「ありがとう」も、どれひとつとっても十分な事柄なのに、それが三つもつなげられたら、そう思わざるを得ない。まるで、大根と卵と牛乳買ってきて、と言うくらいの軽さだ。
そこには、イラスト付きで書かれている。わたしたちのいのちはお父さんお母さんがいたから、20代さかのぼると104万人の先祖、たくさんの人の命があったから、今あるんだ! いのちってすごいなあ! とのこと。実は僕自身、この手の語りをずっとしてきました。だからこそ気持ち悪い。ぼくは自分を支える直系の親の数を上げる語りで何を強調したかというと、ご先祖様への感謝ではなく(そんなことは大きなお世話だ)、私とは私ならざるものによって成立せしめられているという、生きているものの脱我構造を、です。そのために「生命体」と「生命」を峻別して。数え切れないほどの直系の親や、見たことのない恐竜、それら無数の「生命体」を「生命体」たらしめている生命が今ここで私に充溢している。死んでいく私を死なないものが生かしている。そういうただ一つの生命、「形なきいのち」こそが肝腎カナメなのです。しかしこの冊子では、「生命体」のことしか言ってないようです(2月11日にも関係するような話をしてたのでご参照)。
なんかおかしい。それは、無我ということが欠落しているということだろう。無我ってことがないから、わかりやすいのだ。そして問題なのだ。
結局自分という枠組みは一度も壊れていない。「わたしのいのち」と「たくさんのいのち」なのである。「子どもは親から生まれない」という発想のかけらもない。実体をつなぎ合わせて考えるのが縁起ぢゃないでしょう。縁起・空はどこ行ったんだろーなあ。
自分を肯定できる人はそれで「ありがとう」かもしれないが、自分の生が疎ましく重苦しくて、それがために世界にも人類の歴史にも絶望しがちな人には、我が身一つの絶望が宇宙大になってしまって、感謝どころぢゃないですよ。
「子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳を知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。」(仏説無量寿経