多なる生命体と一なる生命

『生命の本質と条件』所収の拙稿の一部をまたまた引いておきます(すでに2月15日と2月16日にも引用しています)。
冒頭の問い「人を殺すことはなぜいけないのか」に応えておかねばなるまい。〈生命は自分のものではない〉〈自分のもとはもはや自分とは言えない〉からである。他人のものだからいけないのではなく、自分であれ他人であれ誰かの所有物ではないのだから左右することは許されない。この応えがなおも奇妙に思われる人は、次に言う事実をみつめればよい。自分で自分を生んだ者はいない。自分ではないどこかから生まれてきて、こうしてここにいる。自分を食べて生きている者もいない。
自己とは、自己ならざるものと自己との関わりである。無意味と意味、意識されないものと意識との関わりの全体である。すると、生きているということは「私」という意識や個体をこえて、意識の及ばないところにまで通じているものである。
  花咲けば命一つといふことを  大峯あきら
「花の命は短くて」桜は散るから美しい。花にもひとつひとつ命があるように、私の命もひとつしかないのだから、美しい。私も、この限られた命の花を咲かせていこう。この「一つ」はそんなことではないだろう。花が咲くところに開いている命は一つ。満開の花々があっても一つ。命は、人間や桜という枠をあふれて、唯一。それは宇宙的生命だ。唯一の命が、一つ一つを孤立させるのではなく充実させ、緊密な関係のうちにおく。私を越えている生命が私を私にすると同時に、桜を桜にし蝶を蝶にし月を月にする。