「みんなちがってみんないい」の射程

「みんなちがってみんないい」を感傷的に、情緒的に感動するのはたやすいことである。この詩句を生きようと思ったら、生やさしいものではない。4月20日にこう書きました。ついでにこの句のカイシャクを少し。
「違い」の肯定はどういう射程をもっているか。
白い花と黄色い花、それぞれきれい。AさんとBさんは違っていて、それぞれがいい。空間上に2つの位置を占めるものをそれぞれ肯定する。のみならず、空間上のAさんとBさんの違いは時間上の私Aと私Bとの違いでもあり得る。他者の多様性を認めることが重要なのは、自己の多様性を認めることでもあるからだ。さらに、違いは深く抉る。自分が不変で固定した何者か(実体)ではないということを暴く。個体的な違いとして結実する以前の萌芽のところでの違い、それは物の否定性、あるいは物の於いてある場所の、それが物を支えているところであるような、否定性。
そのような違いなるものが、瞬間を暴くと同時に肯定する。実体を結ばない、固定性という持続をのぞめないもの、それが存在するものの宿命であって、そのことこその肯定。
瞬間としてしか像をむすばない、はかないものとして現実の根本層をうきぼりにする「違い」であって、そこまできわだった、万物の実相にまで届く仕方での「いい」ということは、いわば「絶対肯定」である。
その違いに身を切られた者の、生活実感のところでいえば、たとえば、自分がどんな悲惨な境遇に陥ったときでも「これでよし」という肯定感をもって生きられるということである。あたかも魔が差すように、ふっと一息したところに差し込む肯定の光。人と人の間に発生して、しかも両者を包み込んで両者を照らす肯定の光。
否定の刃に斬られることがなぜか肯定。斬られた傷みで、傷みをとおして身体を回復して存在が浮き立つ如く。