磁石と釘

寺で話をする機会が、時々降ってくる。「僧侶よりも僧侶的」だとか、「いつ僧侶になってもおかしくない」「そのうちになるはずだ」などといわれながら、一向になる気がない。それだから機会は少ないが、好きな仕事の一つである。もし僧侶でなくても話をさせてくれる寺があるなら喜んで行くので、どうぞ声をかけてくださいね。
似て非なるもの(似而非)と書いて「えせ」と読ませるように、似てるものこそが最も非なるものである。しかし、小さな違いがあるということに気がつかなければ、似てるではなく同じものとして見過ごされてしまう。偽仮面ライダーのように目印に変な色のマフラーをしてくれているならいざ知らず、小さな違いだけにそれに気づくことはむつかしい。気づけば、小さな溝が深い谷をたたえていることを知る。
同じ語りで、導かれるものが違うということを再説しておきたい。というのも、寺で話して思い出された譬喩が事柄を明確にするだろうと思ったからだ。私の親は父母で二人、祖父母合わせて六人、20代さかのぼると104万人、30代さかのぼると・・・。自分を支える直系の親を数え上げる語りをしてきた僕は、それで何を強調したかというと、ご先祖様への感謝ではなく、すべて生命は宇宙的生命だということです。
「ご先祖お一人お一人のいのちが、脈々と受け継がれて、私のいのちがあるのです。なんと不可思議で尊く、ありがたいことでしょう。私は、ご先祖へ感謝のまことを捧げ、そのご恩に報いるべく、二度とない人生を、悔いなく生きることを誓います。
私は、ご先祖からいただいた、かけがえのないこのいのちを、多くの人々の幸せづくりに役立てることを誓います。」(「ほとけさまのおはなし」と題されたパンフより)
「なんと不可思議で尊く」、どこが? 思議を怠けることを不可思議といっていると、いかさまだって「尊くありがたい」。この「不可思議」感覚は多分、思議の一徹底形態である科学技術的思議に簡単に迎合するだろう。先祖の一人ひとりのいのち・受け継がれる・私のいのち、これは、DNAやゲノムの話で十分包摂しつくされるだろうし、むしろDNA話のほうが思議を備えているだけに、よっぽど不可思議な話ができる。もっと簡単に、生殖細胞と体細胞の違いだけで、説明は付くかもしれない。
先祖への感謝は親への感謝を飴のように伸ばしたものであろう。「親に感謝しましょう」というのは子が言うのではなく、親に当たる世代が言うのである。つまり、ちょっとひっくり返れば「親である私に感謝しなさい」に姿を変える。
これはご先祖教である。先祖崇拝。先祖が本尊である。だから、仏とか法とかいう、超越性、非人間性は必要ない。すべて人間で事が足りる。これは、日本教であるが、そこに「死んだらみなホトケ」という思想が加わると、仏教に化ける。死人であるホトケを仏にすり替えることで、日本教は日本仏教という姿をとると言ったらいいのか。だから先祖崇拝を「ほとけさまのおはなし」などと憚らずに公言できるようになるのだ。生きている私の、生き死にの尖端的自覚が問われなくなる。宗教のありかが、自己ではなく先祖という他人になる。死んだ人々が問題なのであって、かりに自分が問題になるとしてもそれは死んだ後のことだから、そんなことはわかる訳ないので、生きている間は関係ない。それに「死んだらみなホトケ」だ、心配することもない。宗教の問題は、みんな先祖が肩代わりしてくれるので、逃れることができる。かくして日本人は「無宗教」にめでたく安住することができる。
先祖という血で脈々とつながる人間関係が「尊い」と言う(それは「自分だけで生きてる」と思い上がった意識にとって有効であることは否定しない)が、それは玉城康四郎流にいえば「業熟体」にすぎない。仏陀の目には、覚らない親子関係がどれほど続いても、それは「愚か」であり「哀れな痛ましいこと」と映るのである。
たくさんのいのち、つまり個体のいのちを多量に集めると、尊くなるのか。個体のいのちと個体のいのちが「受け継がれている」ことが不思議なのか。それが不思議なら、受け継がれるという事態をもっとよく考えて、「御先祖様からいただいたいのち」なんて変なこと言わず、個体のいのちという枠組みが瓦解するまでの語りをしてほしい。親が子を産むのでない。親とその系列である先祖は、出生の条件であることには違いないが、生命自身の産出活動に参加したくらいでそれを人間の力に帰するような発想は不遜であり傲慢である。
私のいのちは私由来ではなく、他者由来である。ということは、私が私であることは他者に与っている。これだけで、自他の垣根は崩れる。私という個体は実体ではない。個体という形態を結ぶ当のものは個体ではない。結ばれた個体を結ぶものは個体ではない、といったらいいのか。それは、先祖という枠には収まらない。生物進化を考えてもヒトの枠にさえ収まらない。あらゆる生き物の共通の親であるような生命の発端まで、科学的知性ですら、想定できる。
ただ、それはかつて生命の起源として一回的に生命が始まったときのみの大昔のことではなく、その始まりは私という個体を成立させたものとして、かつ瞬間を成立させる(つまり滅から生を立ち上げつづける)ものとして、私の根底である。ありつづける。私は私ならざるものによって私を恵まれており、その恵むものは親を親として他人を他人として花を花として恵むものであり、だから、私とあなたが絶対に違うということをとおして私とあなたは繋がるのである。
釘は磁石に吸い寄せられる。磁石に引きつけられることによって釘の内部から何かが変わる。釘が磁石につくことで、釘は他の釘とも繋がることができる。これは不思議だ。釘は何万個集めたところで釘であって磁石ぢゃない。五寸釘、さび釘、折れ釘、どれが美しいとか強いとか言ってみたところで、どれも釘であることに変わりはない。しかし、たったひとつの磁石で、釘は磁石に転換する。たった一つのみえない力が、多数の釘を統べて、釘たちは違いを越えてひとつになる。つまり、みじめな違いも肯定される。どれも、磁力というたったひとつの力があってのこと。
たくさんのいのちがあるから不思議という語りには、磁石というたったひとつのいのちが欠けている。だから、釘の量がどれほどあったところで虚しいという感受が芽生えず、それを尊いなどと思い違いつづける。